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2007-02-16
改悪教基法は子どもの権利条約とこんなに違う!
 
福田雅章(DCI日本支部代表)
 
 
@ 教育論の欠如
 教育基本法の改正は、日本の将来のあり方を決定する国家の「百年の計」のはずです。それなのに、今回の改正のプロセスでは、経済界や政治家の目先の利害とイデオロギーだけが声高く語られ、本来教育とは何であり、どのように行われるべきかという普遍的かつ科学的な教育論議が完全に排除されています。もう一度根本からやり直すべきです。さもなければ"不良品"ばかりが製造され、百年の計が瓦解します。子どもの成長発達(=教育)について人類の英知を凝縮している「子どもの権利条約」こそ参照にされるべきです。
 
A 教育の原点――教育とは何か
 改悪教基法では、国や社会の一定の目的に向けて、あたかも馬やライオンを都合良く仕込むように、「人を調教すること」が教育だとしています。これに対して条約では、教育を人間の尊厳をもった一人ひとりの子どもの成長発達へ向けての援助としてとらえ、その精神的・肉体的能力を最大限にまで引き出すことと考えています(6、29、12、5、28条)。例えるなら、商品価値の高い"四角いすいか"を作ることなのか、それとも少しゆがんでいても、あるいは大小を問わず、自然のめぐみたっぷりの"丸いすいか"を作るかの違いです。教育の原点を、外からの条件付け(教化)とみるか、それとも子どもの主体的な発達へ向けての援助(生命力の開花)とみるべきか、歴史や国際比較や人間行動科学に学びながら、日本国百年の計の中でしっかりと議論されなければなりません。
 
B 教育の目標――どんな人を作ろう  としているのか
 そもそも今回の改正は、「日本の国力を高め、国際的な大競争時代を打ち勝つ人材の養成」(教育改革国民会議答申ほか)をかけ声にして始められました。それを受けて、改悪教基法は、国家や社会に役立つ人材の養成を目標としています。第1に、ほんの一握りのリーダー足りうる選別されたエリートの養成、第2に、日本国を愛する態度をはじめ、法定の道徳観をもった日本国民の養成、第3に、分に応じて公共(=国家・経済・社会秩序)に貢献できる人になること、第4に、上記いずれにも入れない人は、ダメ人間として社会の規律装置に服することが求められることになります。国家の政策目標にかなった人材養成、すなわち「国策教育」の実現です。
 これに対して、条約は、一人ひとりの子どもが、その持てる能力を最大限に発揮できるような人になること、すなわち「人間教育」の実践です(29条)。国や社会に役立つ人材の養成ではなく、一人ひとりが自分らしく自律的に活き、かつひと他人のことを考えられる道徳性を備えた人間になることを目標としています。その能力が社会の人材として役立つかあるいは社会の秩序維持に貢献しうるかは、結果であって、目標とはされていません。これは、国民の文化的民度および子どもの学力の国際比較において、常に最高順位に位置づけられるスカンジナビア諸国等で採用されている教育目標でもあります。
 
C 教育の方法――どのような方法   で教育目標を達成するか
 改悪教基法と「子どもの権利条約」との決定的な違いは、教育目標を達成するための方法に関してです。改悪教基法は法律と競争と規律に基づいて教育すると言っています。言い換えると教育内容と達成度の基準を国が定め、それへ向けて子どもを競争させて選別序列化します。そのプロセスを邪魔する者は規律で排除され、成果の上がらない者は切り捨てられることになります。自己決定・自己責任に基づく競争原理と成果主義を用い、また道徳的規範を規律によって強制的に醸成しようとするものです。
 これに対して条約は、親や教師等子どもが成長発達の場で出会う身近な人との間に「安心と自信の持てる受容的な人間関係(居場所)」を形成し、そこに生まれる自己肯定感と共感能力を通して、人としての自律性と道徳性(人格)を培おうとするものです。これは近年トラウマ治療の大脳生理学的研究の発展にともなって、再び脚光を浴びるに至った、人格形成に関する「愛着理論」に基礎づけられた教育方法です。
 近年の子どものいじめ・自殺・非行・道徳性の欠如等の現象、さらには現在のおとな社会の非人間的・非道徳的な国家・行政政策や荒れも、詰まるところ、国家経済の発展を最優先する教育(養育)政策の中で、「安心と自信の持てる受容的な人間関係」を否定されてきた不幸な人たちによる悲しいでも当然の所産と言えましょう。国連の勧告が、日本の教育制度は、「高度に競争主義のもと、子どもをストレスに追い込み、子どもの成長発達を歪める」制度だと断じているのはまさに正鵠を得ています。改悪教基法はこの勧告を一顧だにしていません。
 子どもは、「命を大切にしろ」「人をいじめるな」「勉強しろ」「親を愛せ」「先生を敬え」「国を愛せ」なんて言われなくても、「一人の尊厳をもった人間」として尊重され、「そのままでいいよ」「そうだったんだ、大変だったね」と親や教師や国から受容された人は、自ずと生きる勇気(自己肯定感 → 好奇心 → 学びの力)や、ひと他人のことを考える力(共感能力 → 道徳性)を体得するのです。条約の求める「安心と自信の持てる受容的な人間関係」の形成こそが人格形成の原点であり、これを欠く子育ては、いかなる名称(教育・指導・保護等)を用いようとも、子どもを、外在的な現在の功利的な価値に服従させるための管理支配と洗脳の手段以外の何ものでもありません。即戦力にはならなくても、一人ひとりの生命力の中に秘められた能力を最大限に引き出すことによってのみ、日本の次世代の国力は回復するはずです。なぜなら現在の功利的な価値をどんなに教化しても、それは次世代の価値の創造にはつながらないからです。
 
D 教育における子どもの地位
 「子どもの権利条約」が先駆的・革命的と言われるゆえんは、教育や養育のプロセス(子どもの成長発達のプロセス=子ども期)に「自ら主体として参加する力を子どもに保障した」と言う点にあります。これは、Cで述べたように、「安心と自信の持てる受容的な人間関係」がない限り、子どもは、絶対に、自律的で道徳的な人間に育つことができないという、人類が長年培ってきた経験的な英知と人間行動学の最新の成果を踏まえたものです。なぜなら今のおとなたちには、おとなの側から子どもと受容的な人間関係を築く余裕も能力もないからです。
 お金と地位と成果争いに追い立てられているおとなは、一方で、子どもと受容的な人間関係を築くための経済的・時間的余裕もなく、他方で、よしんばその余裕があるとしても、自らが受容的に愛された経験がないために、「そうすることがお前の最善の利益だ」「がまんするのだ」「まだ頑張りが足りない」と、自分がされたのと同じように、現在の日本社会の画一的な価値を子どもに本気で押しつけるか、さもなければ無気力に子どもを放任したり、心的・肉体的に子どもを虐待しています。親や教師に「そのままで抱えて欲しい」と願う子どもは、恐怖と孤独と絶望の中で、「こっちに顔を向けてよ」と、おとなの要求に過剰適合したり、時には万引きや非行に走ったりしながら、一生懸命演技を続けています。
 端的に言うと、現代社会においては、おとなの善意や愛情に基づいておとなの側から、子どもの成長発達に不可欠な「受容的な人間関係」を形成することができなくなっているのです。そこで条約は、子ども自身に「受容的な人間関係」を形成する力、すなわち自分の思いや願いを自由に表明する権利を保障し、それに誠実に応答する義務をおとなに課したのです(条約12条の意見表明権)。言い換えると、子どもの「ねぇ〜、ねぇ〜」という呼びかけに対して、たとえそれがどんなに馬鹿げていようとも、身近なおとなは「な〜に」と顔を向け、受容的に応答する義務を負うことによって、子ども自身に自らの成長発達に不可欠な人間関係を築く力を保障したのです。しかも、この意見表明権は、成長発達に不可欠な居場所を保障するのみならず、自らの呼びかけを無視されることなく応答してもらうことによって、子どもの人間としての尊厳(主体性)を自ら確保する力(権利)でもあり、さらには、継続的な受容関係における対話のキャッチボールを通して、自らの成長発達に参加し、子どもが未熟な待ち人としてではなく、今を主体的に活きるための権利でもあるのです。日々の日常生活の場で、人間としての尊厳を、成長発達に不可欠な居場所を、そして今を活きることを保障する意見表明権(受容的な人間関係を形成する権利)こそ、子どもの権利条約が保障している子どもの権利の本質なのです。子どもの権利条約は、俗に言われるように、決して子どもの自己決定権や社会参加権を保障したものではないのです。
 今回の改悪教基法は、条約が、子どもが意見表明権を通して、親や教師との間に人間関係を形成し、自らの教育(成長発達)に主体的に参加する地位を有しており、それを子どもの権利の中核として保障していることを、完全に無視しています。このことは、今回の改正のプロセスを見ても如実に見て取れます。教育の改革は、子どもに決定的な影響力をおよぼすにもかかわらず、その主体である子どもは、完全に蚊帳の外に置かれ、一切の説明も受けず、一言も意見を言う機会を与えられていません。それどころか、おとなの都合で定められる法律と競争と規律の枠組みの中で、非道徳的かつ屈辱的な客体として国家政策への従順と服従を強いられようとしているのです。自らの主体性と可能性を否定される子どもたちがどんなおとなになるか、それは今教育基本法を改正しようとしている人たちの面々を見れば一目瞭然と言えましょう。より巨大な権力に身を委ね、人間性を忘れたことばを操り、人の痛みを共有することのできない、傲慢で孤独なモンスターです。
 
E 教育の場の形成――上記の教育の  原点・目標・手段を具体的に教育  の場でどのように形成するか
 教育の現場は、法律の規定と命令、それに内閣府に設置される振興計画会議の決定する教育指針と人事・予算配分基準、およびその下達を受けた一定の地方機関や校長権限に基づく職務命令等によって形成されことになります。これは大変恐ろしいことです。
 教育の現場で生徒と直に向き合う個々の教師は、上意下達に基づく命令の執行官ではあっても、教育の創造的な担い手とはみなされません。すでに述べたように、子どもの人格形成に当たっては、教師と一人ひとりの生徒との間に受容的な人間関係を形成することが不可欠の前提となるはずですが、上からの画一的な命令に基づいて成果を上げなければならない教師には、実際にそのような関係性を築く余裕もなく、また原理的にも求められないことになります。これでは条約の要請する人間教育の実践はとうてい実現できません。第2回国連からの勧告が、「教育の高い質を維持しながら学校制度の競争主義的な性格を抑制することを目的として、生徒、親、および関連する非政府組織の意見を考慮に入れながら、カリキュラムを見直すこと」(50項)を要請していますが、法律と振興計画会議と校長の命令に基づく教育現場の形成は、この勧告とも真っ向から対立することになります。
 伊吹文科大臣は、「法律に基づいて教育を行うことは、国民の意思を反映した教育を行うことである」とうそぶいていますが、内閣府の下に設置される振興計画会議の決定は、その時々の政治権力の意思そのものであり、政治的な国策がそれを通して、直ちに全国津々浦々の教育現場に下達され、校長命令となって実施されることになります。このような国家システムとしての教育統制権力の創造が教育現場におよぼす影響は、日の丸・君が代の強制や"愛国心"規定の創設の段ではありません。現場教育が、時の政治権力によって不当に支配されることを原理的に承認し、かつ制度的に保障することを意味するからです。条約においては、子どもの養育の第一次的責務を親に認め、国には親の責務の遂行を援助する第二次的な責務しか承認していません。そうであれば、教育の場は、原則的に子ども自身、親、そして教師によって形成されることになり、政治権力や行政権力による支配から自由な空間として形成されなければならないはずです。ここでも条約と今回の改正案は、真っ向から対立することになります。
 
F 教育における家庭の役割
 改悪教基法は、その2条で教育の達成目標として20数個の徳目を国定しています。このことは、学校教育はもちろん、新たに盛り込まれた10条の家庭教育の達成目標でもあります。幼児期の子育ち(改悪教基法では幼児期の"教育"として11条で規定)を含めて、子どもの成長発達や人格の形成にとって家庭がいかに重要な役割をはたすかは言うまでもありません。しかし、その重要性は、国家道徳を植え込む場としてのそれではないはずです。それは、親子関係を通して、子どもが自分らしく生きる自律性の源である自己肯定感、および損失感なしに自分のエネルギーを他者に使える道徳性の源となる共感能力を醸成できるように「愛される場」としてです。親が負うべき「第一義的な責務」とは、子どもを無条件で"愛すること"であって、社会や国家道徳に合わせて子どもを鋳型にはめ込むこと(いわゆる"教育"や"指導")ではないのです。
 子どもの権利条約は、前文の冒頭で、「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員、特に、児童の成長及び福祉のための自然な環境」であることを確認し、「児童が、その人格の完全なかつ調和のとれた発達のため、家庭環境の下で幸福、愛情及び理解のある雰囲気の中で成長すべき」ことを求めています。家庭での"幸福、愛情及び理解"があってはじめて子どもの人格、すなわち自律性と道徳性が培われるとしているのです。今回の改悪教基法は、養育ないしは教育の原点である"幸福、愛情及び理解"をまったく棚上げして、国定徳目の植え込みを家庭の第一義的責務とするものであり、「子どもの権利条約」の根本理念に反します。
 さらに重要なことは、「子どもの権利条約」は、この子どもの成長発達にとって不可欠な
"幸福、愛情及び理解"を革新的な方法で保障しようとしている点にあります。現代社会においては、様々な理由で、家庭や学校は子どもに"幸福、愛情及び理解"を提供できなくなっています。それどころか、今回の改悪に象徴されるように、国家目標や経済目標によって、まず子どもを管理支配し、序列化しようとします。手垢のついたおとなの責務や恩恵による"幸福、愛情及び理解"では、子どもは成長発達できません。そこで、「子どもの権利条約」は、子どもが自らの力(権利)で、おとなの拒否する真の"幸福、愛情及び理解"を実現することを求めたのです。考えてみてください。「ああ、自分は、幸せだな〜、愛されているな〜、理解されているな〜」と実感できるのは、どのようなときでしょうか。どんな悪いことをしても、どんなに進退窮まったときでも、「そうだったんだ! 大変だったね」と無条件でありのままの存在を受容的に肯定されたときではないでしょうか。そのときに自ずとわき出てくる「ありがとう」「ごめんなさい」という自己肯定感と補償感情(共感能力)こそ人格形成の源泉なのです。「家庭環境の下で幸福、愛情及び理解のある雰囲気」とは、子どもの欲求を受容的に受け入れる人間関係を意味するのです。「子どもの権利条約」の12条は、子どもの持っているこの欲求(views)を表明する力(言語によるもののみならず、態度、怒り、身体的症状、非行等をすべて含む)を、子ども固有の権利として保障し、それに対して身近なおとなが誠実に応答することを義務としたのです。実態を正確に表しているかどうかは別として、意見表明権と呼ばれています。この意見表明権こそは「子どもが自らの力で欲求を受容的に受け入れてもらう人間関係」、すなわち"幸福、愛情及び理解"を形成・実現する子どもの権利なのです。親や教師はこの権利行使を無条件で保障する義務と責務を負い、この関係を破壊しようとする外的な圧力をはねのける権利を有しているのです(条約5条)。子どもの権利条約のいう「第一義的な責務」とは、以上のようなものであり、改悪教基法とは、まったく違うものです。
 今回の改悪法では、親は、国家目標を国家(時々の政府)と一緒になって子どもの心に植え付け、分に応じて分配される教育的地位を買い取る購買者でしかなく、公教育から放擲される"悪い子"の責任者として位置づけられます
 
G 教育における平等
すでに教育再生会議がしゃにむにその具体化を推進しているところかも明らかなように、改悪法は、教育受益格差と学校間格差を生みだし、非人間的な階層社会を生み出します。この点は多くの論者がすでに指摘しているとおりです。
 男女共学規定を故意に外し、障害をもつ子どもの特別規定の挿入も「子どもの権利条約」とはまったく相容れないものです。国連「子どもの権利委員会」が日本政府に出した2回の勧告が、日本の社会的文化として存在している女子差別や障害をもつ子への差別に対して、「社会的インクルージョン」の実現を強く迫っていることを想起するだけでもこのことは明白です。
 
H 教育における地域の役割
 教基法改正案13条は、「学校、 家庭及び地域住民その他の関係者は、・・・・相互の連携及び協力に努めるものとする」とし、「その他の関係者」の中には警察が含まれます(6月8日の馳副大臣の国会での答弁)。教育基本法そのものが、学校と警察の連携協力を、わが国の教育体制の基本原則の一つとして承認しようとしているのです。
 学校は、校則・「ゼロトレランス」・懲戒・出席停止を厳正に用いて、また警察は改正少年法を用いて、相互に緊密な連携協力を取りながら、"規律の維持"と"規範意識の醸成"の名のもとに、学校の内外を問わず、子どもを管理・監視するシステム、すなわち権威(エリート・新しい公共)への服従の訓練を行い、かつ「ダメな子」を排除するシステムが今まさに確立されようとしているのです。
 国定道徳へ向けての地域の相互監視システムは、再び物を言えない社会へと導きます。
 
 
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