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教育改革と子どもの発達?
「問う権利」の復権? |
中嶋哲彦(名古屋大学)
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頭脳の効率的破壊
これから1年間の浪人生活に入ろうとする息子に、「どの予備校に通ったらいいのだろう?」と尋ねられた。受験対策はよく分からないので、「お前の頭脳を最も効果的に破壊してくれる予備校を探すことだね。」と答えた。信頼関係が成立している息子に対してでなければ言えないブラック・ジョークだ。
「受験勉強=頭脳の破壊」という定式化には反発を覚える青年もいるだろう。しかし、受験勉強を「予め用意されている唯一の正解に素早く到達する能力を向上させることを目的とする学習」ととらえることが許されるならば、この定式化はあながちジョークとは言えないだろう。そして、そのことは直ちに、「確かな学力」の形成を目指す教育「改革」の下で、子どもたちの頭脳が破壊され続けていることを意味する。
人間発達と問う権利
ところで、フリードリヒ・エンゲルスは『猿が人になるにあたって労働が果たした役割』で、人間は労働を通じて自然に働きかけ自然を変革したが、それは同時に自分自身の身体と精神活動を作り上げ、さらに社会を形成するプロセスでもあったことを指摘している。人間は労働を通じて自分自身を作り上げたというエンゲルスの指摘は今もなお新鮮である。教育学部の授業でこの話しを持ち出すと、学生たちは眼を見開いて聞き入る。
そこで、私は「受験戦争を勝ち抜いた」学生たちに学習の意味を問い直すよう促す。「予め用意されている唯一の正解に素早く到達する能力を向上させること」が学習の名に値するのか。知識をたくさん獲得して素早く取り出せるようにすること、機械仕掛けのような正確さで正解に到達する技能を獲得することを、人間が労働を通じて自分自身を形成したのと同じ意味を込めて、学習と呼んでよいのかと問う。
まず私から問いを投げかけて、学生たちが一人一人で考え、それを自由に発表する機会を与える。一人の学生が発した疑問について、座席が近い者同士で話し合ったうえで、自分の考えを発表する。それを繰り返しながら、考えを深めていく。じつは、この授業には仕掛けがある。学習とはどういうことかと問い、ディスカッションに受講生全員が参加して考える。学習とは問いを立てること、その問いに答えようとすること、そして仲間同士のコミュニケーション、そしてエンゲルスとの時空を超えたコミュニケーションが決定的に重要だと気づかせたい。そして、破壊された頭脳を修復する唯一の方法は、自分自身を含むあらゆるものに疑い、問いを立て、仲間とのコミュニケーションの下、考え続けることである、と。
問いを立てることに人間が人間であるために決定的に重要な意味があるとすれば、「学習する権利」とは「問う権利」だと言い換えてもいいのかもしれない。ユネスコの学習権宣言でも、学習権とは問う権利であると言っている。とすれば、出題者が予め用意した一つの正解にできるだけ早くたどり着くための受験準備教育は、学習者の問う権利を奪い、頭脳の人間的発達を阻害するものだと言わなければならないだろう。
教育改革と問う権利
国が進める地方分権改革の下で、幾つかの地方公共団体が独自の教育改革に乗り出したと報じられている。しかし、それらにどれほどの独自性があるのか、自主的・自律的な改革というが本当にそうなのか、私は疑わしく思っている。結局のところ、政府が進めようとする国家戦略に照応する教育改革を率先して進めようとしているものが多いのではないか、と(この点に関する私の見方はすでに発表しているので、以下の論文をご覧いただきたい。(1)「義務教育費国庫負担見直しをめぐる問題?設置者管理・負担主義、国の基盤的教育条件整備責任、国家改造論の不完全性?」『教育政策学会年報』第11号(2004年)、(2)「義務教育制度の規制改革と地方分権改革?教育人権保障と教育自治の視点から?」『教育制度学研究』第12号(2005年)、(3) 「義務教育費国庫負担制度と教育の地方自治?地方分権改革の欺瞞性とその矛盾?」『教育制度学研究』第14号(2006年)掲載予定。)。
2002年4月に、表看板を「ゆとり教育」から「たしかな学力」に架け替えた学習指導要領がスタートした。文科省が「たしかな学力」の重視を表明したとたん、学力論争は終息し、多くの学校や教育委員会は「発展的な学習」と「習熟度別指導」に向かった。地方と学校の自主性・自律性は「基礎基本の徹底」とそれをクリアした児童生徒に対する「発展的な学習」の充実に向けられ、それを通じて義務教育制度は格差的再編成の道を歩み出した。さらに、それによって学習の階層化を容認するロジックが生み出された。しかも、学力を私的に調達できる階層とそうでない階層との間に格差が広がっているが、このことは学力調査でも隠蔽されている(拙稿「論争を終息させてよいのか」『現代教育科学』第588号(2005年9月)11-13頁参照。)。
しかも、「ゆとり教育」をきっかけに生まれ始めた「学力は何か」との問いも、それといっしょに消し飛んでしまったよう見える。「確かな学力」と「発展的な学習」という怪しげな言説が学力低下への不安を払拭したとき、「自ら問うことを通じて学ぶ」「仲間とともに学び合う」という理想もかき消されてしまった。このことは、文科省がいかに不確かな論拠で理想を語っていたかを証明している。
今日の教育政策の問題点として、先に公教育を格差的に再編成していること、しかも義務教育にまでそれを持ち込んでいることを指摘したが、より教育内在的に言えば「確かな学力」「発展的な学習」を目指す教育改革の下で詰め込み型学力観が復権を果たし、その一方で問う権利を保障する教育実践を作り出す取り組みが困難に直面している。
詰め込み型学力観にもとづく教育改革を進めても、公教育が直面する問題を正面からとらえることも、その諸困難を解決する手掛かりをえることもできないだろう。まずに、人間は問うことによって学習し、自らを発達させてきたという認識に立ち戻ることが必要であろう。それは「問う権利」の復権と、自ら考え続ける営みの再興でなければならない。
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