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免許更新制の導入が意味するもの
 
中田 康彦(一橋大学)
 
 
 7月11日に提出された中教審答申は3つの提案を含んでいる。一つは「教育実践演習」の創設や事後評価の導入といった教職課程改革、もう一つは教職大学院の創設、そして免許更新制の導入である。ここではマスコミを最もにぎわした免許更新制の導入にしぼって、その意味を考えてみたい。
 
 
1.なぜ今免許更新制なのか 
 
 免許更新制の導入は今に始まったアイデアではない。過去にも審議会で検討されながら、提案は見送られてきた。昨年8月に発表された「たたき台」は大きな反響を呼び、12月に出された中間報告ではやや消極化した感があった。ところが答申をまとめる段になって「現職教員に適用しないのであれば20年待っても現場は変わらない」といういささか乱暴な理由で、「現職教員を含むすべての教員免許保有者は、講習を受けることで10年ごとに免許を更新しなければならない」という方針がうちだされたのである。答申ではすでにかなり具体的なプランが提示されており、文部科学
省はいつでもゴーサインを出せる状態にあるとみてよいだろう。
 制度化に伴うさまざまな問題点が指摘されていながら、あえて導入の提案にふみきった中教審がよりどころとするのは、「学校・教師の信頼の回復」(これは2005年10月に出された中教審答申「義務教育の構造改革」で掲げられたスローガンである)と「変化への対応」である。流動化する社会の変動に対応することが求められている以上、教員養成段階で獲得された知識・技能だけで終生教師を過ごすことはできない、というわけである。
 この論理を前面に出す限り、大学の教職課程改革や教職大学院の創設にとどまるわけにはいかなかった。というのは教職課程改革による効果が現れるのは今後大学に入学する学生が就職し、一定の年数を経てからだし、幹部候補生の育成を旨とする教職大学院はすべての教職員を対象としていない以上、「教師の資質向上による信頼回復」策としては不十分だからである。少なくとも世論に対して改革に着手しているとアピールするためには、さまざまな困難を承知のうえで現職教員を含む免許更新制にふみきらざるをえなかった。
 
 
2.免許更新制は本当に機能するのか
 
 昨年来、免許更新制はマスコミでもたびたびとりあげられ、全体としては批判的論調が多かった。むしろセンセーショナルな形でとりあげられる結果、具体化された時の実像が見えにくくなったとすらいえるかもしれない。ここでは現実にはどうなるのか、ということを冷静に考えてみよう。一つは「本当に教師の資質向上に役立つのか」という制度の効果について、もう一つは「そんなものを制度化したら大変な騒動になるのではないか」という実現可能性について、そして「指導力不足・不適格教員の締め出しという管理統制につながるのではないか」という副次的効果についてである。
 
(1)制度効果
 
 免許更新の条件は講習を受講することである。免許更新制の導入を検討しながら最終的には提案を見送った前回の中教審では、導入の代わりに十年研修を置き土産とした。その結果、ただでさえ現場から引き離すことが多いと不評の行政研修がますます"緻密に"組織化された。免許更新という手続き的意味はないが、十年ごとに研修を義務づけるという点だけは一足先に導入されたのである。
 しかし免許更新制が導入されると、教職に就いていない者でも免許を更新したければ講習を受けることになるから、受講者の規模は増えることになる。教職に実際に就いた経験がない者も含む。したがって十年間の勤務経験を共有しているという前提はなく、現場状況についての情報がゼロに近いぺ―パーティーチャ―から日々勤務している者まで広範に抱えることになるのである。
 このような前提で行われる講習の内容は、どうしても一般的で最大公約数的な内容にならざるをえない。そのような内容と水準で教師の資質が向上するとはとうてい考えにくいのである。自動車運転免許更新時に義務づけられている講習とまでいわないにせよ、相当形式化せざるをえないだろう。
 
(2)実現可能性
 
 十年研修に対応できている以上、一定規模の受講者への研修は実施可能だとみるべきだろう。今回の制度構想では研修実施機関を教育委員会に所属する研修センターに限定していない。センター主催の講習でも大学院の単位を取得するのでもよい、という発想はアメリカやイギリスにも共通しているし、現職研修の実施先の幅が広がること自体は悪い話ではない。また大学院が本当に更新時講習の実施機関として機能すれば、休眠中のペーパーライセンスの更新にも対応可能だろう(制度導入してから一定期間が経過した時には一斉にペーパーティーチャ―が更新手続きを行うことになるが、その点は割愛する)。だから受け入れキャパシティという点では実はそんなに心配ないと予想される。
 むしろ自動車免許の更新時同様、免許有効期限が近づいてきた時に保有者に講習の受講を促す通知を出す管理業務こそが事務的負担としては問題になるはずである。現職教員はともかく、教職に就いていない者が自分の免許の有効期限を自覚しているとは考えにくい。自動車運転免許と違って日常的に携帯し目に触れる機会があるわけではないからである。有効期限を過ぎても講習を受ければ有効とする、というのが現在の構想(想定されている講習の水準はその程度のものである)だが、だからといって免許保有者に連絡しないわけにもいかないだろう。
 多くの教員免許は大学卒業時に所属大学が一括して所在地の教育委員会に申請している。大学卒業後も住所が同一のままなら連絡もつけやすいというものだが、就職とともに転居するケースは少なくないし、十年後ともなれば転居している確率はぐっと高くなる。免許更新の通知を出すためには一人一人の所在を追跡可能にしておかねばならないし、現住所において更新可能な体制を整えておかねばならない。
 これを本気で実施するのは大変である。ペーパーティーチャ―は実際には最初の更新時に手続をすることなく失効するケースが続出する可能性がある。公式には表明しないだろうが、教職課程で取得した免許はその程度のものだと位置づけることになるだろう。免許が裏打ちする資質を確保することを目指した政策が、実際には免許の重みを軽くするのはなんとも皮肉な話である。
 教育委員会ではなく学校現場の方で問題となるのは、免許更新講習に出席するために学校を離れる教員の代替補充である。8年目以降は受講対象になると想定されているが、彼らが講習に参加する間、授業を担当し学校を通常通り運営するための人的措置が必要となる。これを各学校の枠内で対応せよ、というのはかなり無理な話であって(十年研修もやっている以上、現実にはそうなりそうだが)、このような講習を義務づけるには本来加配が必要である。ところが十年研修のように対象者も講習日も特定できる場合はまだしも、期限が切れる前3年間のうちに必要な単位を取得する、という選択的ポイント制をとる場合、いつどのくらいの措置をとればよいのか予測をたてるのが難しくなってくる。
 日本の教員はめいっぱい働かされており、自らが現職研修を受ける場合も同僚が抜けた穴埋めをする場合も、その余裕がほとんどない。その中で何とかせよというなら、@いつ抜けても大丈夫な程度にゆとりある人的配置にする、A機動的な補充要員を相当数確保しておく、B放課後や週末といった勤務時間外に講習を設定する、C本務に支障がでにくい長期休業期間中に講習を集中させる、といったことを考えなくてはならない。@Aは現実には考えにくいから、Cが最もありうるパターンだが、それだけでは解決しない。この免許更新講習は現職教員以外でも更新希望者には受講を義務づけており、そのような人々も受講可能な日程を設定しておかねばならないからである。学校でいう夏休みなら研修に参加できるはずだというのは現職教員を想定した話であって(現職教員も部活動の顧問はだいぶ拘束されているが)、一般企業勤務者はそうはいかないのである。教員免許を更新したければ年次休暇をとって講習に参加しろ、とはさすがに教育委員会もいえまい。勤務時間外に講習を開講せざるをえないだろう。
 職務専念義務の免除で勤務時間内に受けるべきものと性格づけるのか、勤務時間外での受講を原則として時間外手当は支給されないものと性格づけるのか、原則をどう定めるのかによって制度的対応も異なってくる。
受講を義務づけている以上、機会はすべての対象者に平等に保障しなければならない。勤務時間内であれ時間外であれ、現職教員にせよそれ以外の人であるにせよ、である。こうした厄介な問題を教育委員会は抱え込むようになったのである。
(もちろんこのような機会の公平性は現実には眼をつぶり、実施可能な範囲で強行してくるだろう。どうしても長期休業期間に依存せざるをえないし、ペーパーティーチャ―は切り捨てられるだろう。そうした不平等性が問題化しないためには、更新機会の重みをできるだけ軽減しておく必要がある。結局のところ実質的には現職教員だけを念頭においた制度となり、しかも講習はかなり「形骸化したものになるに違いない。)
 
(3)副次的効果
 
 指導力不足教員・適格性を欠く教員への対応がだいぶ制度化されてきた。各都道府県ごとに認定基準やプロセスを詳細に定めている(実際に行われている研修はいいかげんなものだが)。認定だけではあきたらず、一般行政職へスライドさせるとか分限免職規定を存分に活用するとか、結構本気で取り組んでいるようにみえる。そのせいか、分限免職数も増えているが、指導力不足と認定される時点や研修期間中に依願退職する教師の数が急増している。クビにするという最後の手続きに至る前に目的が達成されるのだから、教育委員会としてはしてやったり、というところだろう。
 とはいえこの認定・免職は本人の身分に関わることなので、その手続きは結構慎重に行われなければならない。実際に大変なのは当該学校の校長である。そう簡単にポンポンと認定できるものでもない。
 免許更新制にすれば全員が対象となるのだから、いちいち面倒な認定手続きをしなくてもスクリーニングが可能になるのではないか、という意見がある。現在では突出した教員の証拠をつかまない限りは免職・退職に追い込めないが、ぐっと手続が簡素化されるために全員が免職・退職の危機にさらされるのではないか、という危惧である。
 確かにその可能性がないとはいえない。現行法では免許を持つことが教職に採用される適格性要件となっているため、(特別免許状を発行しない限り)失職することになるからである。
 だがその危惧が現実化する危険性はそれほど高くない。すでに述べたように免許更新の要件は一定数の講習を受講することであり、その講習はどうしても簡素化されざるをえないからである。免許更新の要件として、適格性審査が行われるのだとすれば別途手続きが必要であり、身分保障に関わるものとして、少なくとも現在と同程度の厳密な手続きが必要である。
 
 
3.免許更新制の現実的機能
 
(1)教育政策担当省庁としてのアピール
 
 何はともあれ教員の資質管理に対する行政責任を果たしていることをさまざまな諮問会議を含む中央省庁内部に対し、また国民・世論に対してアピールすることが、文部科学省にとってまずもって期待する機能であろう。教員の資質はそのライフサイクルに基づき、養成・採用・研修とカテゴライズされて語られてきた。本当は養成と採用の間に「免許」があるのだが、いったん取得してしまえば自動車運転免許以上に空気のような存在になってしまうので、免許の階層化といった制度改革が行われない限り、教育政策としても着手することはなかった。文部科学省内での免許課の業務の多さとは裏腹に、教員免許というのは政策としていじらなくても不問とされてきたのである。採用は都道府県レベルで行われるものだし、研修も基本的には都道府県教育委員会(および市町村教育委員会)が管轄しており、洋上研修が廃止された今、文部科学省が直接関与する場面は少ない。そこで一度課程認定してしまえば後は大学に任せきりとなっていた教員養成と、これまでほとんど扱われてこなかった免許に手をつければ、文部科学省の"本気ぶり"をアピールできる。実際、今回の提案は免許については戦後最大の制度改革である。
 煩雑な管理事務をこなさなければならない教育委員会にとっても悪い話ばかりではない。近年、長期休業期間中の勤務時間管理が厳しくなっているが、たとえば夏休みに毎日出勤させてもすることがなくて困っている、という話をよく聞く。夏休みに毎日出勤させたり、自宅研修や校外研修参加の要件を厳格にしたりしているが、本当に時間管理を厳格にする必要性や権力的に教師をおさえこむ必要性があるからではない。学校は楽でいいとか、教育委員会は何をやっているんだという批判を回避するため、というのが率直な理由であろう。だからすべき仕事もないのに職場に拘束し、仕事をひねりだすという本末転倒なことになっているのである。
 免許更新講習は8年目あたりから受講可能と想定されており、いつでも受講できるわけではないが、単純にいえば3割の教員が受講対象期間になっている計算となる。長期休業期間以外に講習を受けに行くというのは現実には厳しいから、どうしても長期休業期間中にまとめて受講する、ということにならざるをえない。すると3割の教員に対しては、職務の一環として夏休み中にやるべきことを提示することができるではないか!しかも自分の資格に関わることである以上、教員の側も必要性を感じてくれるような職務を!!学校管理職も教員もこれ幸いとばかりに休業期間中は免許更新講習、ということになるに違いない。 
 
(2)教員養成課程の精選と教員養成大学の生命の吹き込み
 
 これは教職課程改革や教職大学院の問題として述べることかもしれないが、関連がないわけではないので指摘しておこう。実際には適格性の判断を厳密に行うのは困難である(それゆえにタテマエとしての制度目的は達成されない)ことはすでに述べた。 
 とはいえ、答申が出された以上実施に踏み切るであろう。教職課程をもつ私立大学や教員養成学部でははやばやと対応策を練り始めている。その中で、こうした改革に対応しきれない大学・短大が現れることが予想される。教職課程改革では「教育実践演習」を新設することとされているが、これは教育実習後に適格性を判断するために20人前後の規模で演習方式で行うものとされている。新設必修科目だからすべての教職課程・教員養成学部が課程認定手続を行わなければならないが、このような条件を字句どおりに対応できる私立大学はそうそうない。教員/学生比が極めて小さい国立大学教員養成学部や免許取得希望者が少ない大学ならいざしらず、その他の大学ではどうせよというのか。というよりこのような対応不可能な科目の設置を義務づけた文部科学省は、いったいどのようなロジックを使って課程認定していくのか。適格性の審査を兼ねるならば、ことは身分に関わる重大な問題だから制度構想と現実が乖離しているのをそうそう見過ごすことはできまい。第三者風にいえば、文部省の動きは見ものであるが、大学としても教職志望学生にとっても笑えない話である。
 これは開放制という戦後教員養成の原則を実質的に後退させることにほかならない。
 適格性の審査能力を大学関係者が備えているのか、という問題もある。教職経験のある者(=退職校長の再就職先か管理職予備軍のプールとして利用されることは想像にかたくない)を採用するとしても、教職経験さえあれば適格性を審査する能力が育まれているといえるのか。適格性診断者としての適格性を誰がどうやって認定するのかという、言葉遊びのような問題は依然として残る。ことは人生の進路に関わることだから重大である。採用のように優秀な人材から募集人数だけ採っていけばよいというのではない。アナタは教師に向かないから教職に就く可能性を摘んでしまうぞ、と宣言するのである。そのような審査を軽軽しくするわけにはいかないから、結局のところ形骸化せざるをえないだろう。これらの政策によって資質向上は期待できない、と結論づけるゆえんである。
 だが、適格性はさておくとして対応可能なキャパシティをもつ大学にとってはこれはオイシイ話でもある。目的養成を担う教員養成学部はずっと定員削減の波に洗われ続けてきた。想定外の退職増加によって、小中学校では予定よりも前倒しで採用増加が始まり、教員養成学部の定員規制も緩和されたのは最近のことである。卒業生は輩出していても採用がない状況が続く中で、社会的価値が疑問視され、国立大学法人化の流れの中で学内から冷ややかな眼で見られている教員養成学部は、自らの存在価値を高めるチャンスと飛びつくだろう。教職大学院が学生定員を充足できずに将来的に行き詰まることが想像されても(雨後のタケノコのように全国に湧き出た法科大学院のその後を見よ)、今の危機を乗り切るには見切り発車で動き出すしかないからである。免許更新講習の請負にいたっては大学教員の負担増以外の実害はないから、大学としては簡単に飛びつけることが予想される。
 文部科学省が教員養成学部の救済措置として構想したとは思えないが、ある大学には教職課程を保持し続けるかどうかの選択を、別の大学には起死回生のチャンスをもたらしているのである。
 
(3)新たな形での教育への介入 
 
 これも教職課程改革に最も明確に表れる効果であるが、教師の資質管理の新たな形態の出現として重要な意味を持っているので指摘しておきたい。
 免許については、いったん教職課程の課程認定をしてしまえば、あとは大学任せであった。教育委員会の免許発行業務も極めて機械的に行われており、実際に教師としての資質を担保しているのかどうか怪しいぐらいであった。
 このたびの免許制度改革は、教職課程の事後評価によって大学における教員養成の質を保証しようとする提案が含まれている。これは学校・教育委員会から教員養成機関に至るすべての教育関係機関に定期的外部評価をとりいれたイギリスと同じ発想である。大学に対する不信を前提として、定期的な評価によって教員養成の過程と品質を国家が管理しようという宣言にほかならない。 
 教職大学院では、実務経験を有する教員を配置することを想定している。これが学校管理職の定年後の再就職先(場合によっては予備軍のプール)となる可能性はすでに述べた。こうした人間を送り込むことによって、教育委員会が大学における教員養成に介入することが可能になる。
 さらに免許の授与にあたって適格性の認定というプロセスを導入しようとしている。採用前に適格性を見極めるというのは、本人にとっても子どもたちの権利保障のためにも確かに大切なことである。しかしこれは重大な問題であるがゆえに、大学間でのバラツキなど許されず、国家的な統一基準を設定する必要がでてくる。実際にはうんと緩やかに適用され認定手続は形骸化するだろうが、制度的には新しい国家基準の設定というかたちで教員養成に介入し、大学における教員養成という戦後教員養成のもう一つの原則をつき崩そうとしているのである。

(4)休眠中の人材発掘と非常勤増加時代への対応
 最後に一点補足しておきたい。
 長らく教員採用氷河期が続いていたが、団塊の世代の定年退職よりもやや早くリタイアが始まり、大都市圏を中心に想定よりも早く採用増加が始まった。 だがこの採用増は一般に期待されているものより小さい規模にとどまるはずである。というのは「簡素で効率的な政府」に向けた公共部門のスリム化がはなばなしく行われる中、公的部門の人件費の多くを占める学校教員の人件費だけがすんなり認められるとは思えないからである。「もはや聖域は存在しない」という構造改革の中で教育予算の縮小が余儀なくされている中、その大半を占める教職員人件費は最もスリム化しやすい対象となる。三位一体の地方分権改革が議論されているが、苅谷剛彦氏の試算では義務教育費国庫負担を廃止すれば40道府県近くの条件は悪化するものとされている。
 こうした状況下でてっとりばやいのは教員の非正規雇用化、つまり非常勤講師への依存である。学校を着々と経営組織体化し、意思決定機能を経営層たる学校管理職に集中させている中、教員は授業と割り当てられた職務負担だけすればよい、という風潮が強まってくるだろう。部活も外注化する自治体が現れてきた。こうした業務のアウトソーシングや組織の合理化は、過重な職務負担にあえぐ教師を解放してくれるものではなく、むしろ教師を「道具」化していく道程である。
 非常勤講師への依存率が高かった東京都のように、非常勤講師のリストが飽和状態になっているところはともかく、これからは即戦力となる非常勤こそが教育委員会の求める人材である。現職教員が免許更新の手続を行うのは当然だが、これまで述べてきたようにこの制度は現職教員以外にはかなり不親切な制度にならざるをえない。その中でも休眠中の免許をわざわざ更新する人は「とりあえず資格として教職でも採っておくか」「記念受験したけど不採用だった」という人に比べると、教職への意思が高い人とみなしうる。免許更新制は現職教員をふるい落とすスクリーニング装置となるのではなく、むしろペーパーティーチャ―から使えそうな人材をふるい出すスクリーニング装置となるのではないか、というのはあまりにも深読み過ぎるだろうか。 
 
 必要以上に長々と書き連ねた気もするが、
@うたわれている教師の資質向上はとうてい期待できない、
Aとはいえ世間で懸念されているような教師全員への管理統制装置というにはあまりにも無理がありすぎる、
Bむしろ現職教員一人一人よりも周辺の関係者への影響の方が無視できない、
C形骸化は容易に想像できるものの戦後最大の免許制度改革であり、イギリスをモデルとした評価国家への道程といわざるをえない(アメリカをモデルにしているようにみえるがアメリカはここまで管理的ではない)、
というのが、私の述べたかったことである。
 
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