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教育基本法「改正」前夜に思うこと |
石井拓児(名古屋大学)
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はじめに
小論に与えられたテーマは、前回第164回国会で政府から提案され継続審議扱いとなった教育基本法「改正」案(以下、改正案)がどのような内容と意味を有しているものなのか、もしも教育基本法が「改正」されてしまうことになれば、一体学校・教育はどのように変わってしまうと考えられるのか、それぞれ考察せよというものである。
これまで私は、科学者の社会的役割とは、自然や社会の仕組みを合理的に理解し、そこに貫かれている法則性を解明することであると同時に、その法則的知見によって私たちの未来社会をも一定程度「予測」したり「予見」したりすることを通じて、人間社会の発展に寄与することであると考えてきた。
科学者である限り、「予測」や「予見」はできる限り慎重でなければならない。しかし、間違いや誤りを恐れて何も発言しないというのは、科学者の態度として褒められたものであるとは私は思わない。「国費」によって維持されている大学関係者がとるべき態度ではない、とさえ考えている。
自然科学とは異なる教育科学(あるいは社会科学)で、今後の動向を完全に見通すことは確かに難しい。それでも、かつての公害研究者や環境科学者が「危険可能性」を指摘してきたように、私は私の専門分野である教育科学の研究財産を頼りにしながら、科学者生命をかけて慎重に、そして大胆に発言したい。そのことを通じて「危険可能性」が回避され、私の「予見」が外れたとするならば、それはそれで本望である。
紙幅の関係上、細部にわたって論拠を示すことができないのが残念だが、これから小論が書きとめようとする内容は、私にとってはそれなりの覚悟と決意を持って記述するものであることをどうかご承知いただきたい。
現代「教育改革」の背景
今日の日本社会の中で、教育基本法を「改正」へと突き動かす社会的・政治的衝動とは何だったのか。
全世界経済のグローバル化にともなって、急激に社会情勢は変化してきている。こうした変化に対応すべく、日本経済界・産業界は国家・行政機関の直接的な援助及び庇護を求めてきており、その要請にまるで完全に従属するかのようにして日本政府は新自由主義的諸政策をおし進めてきた。具体的には、多国籍展開する日本企業の海外権益を保護するための「軍事大国化」、資本の自由な活動を推進する「規制緩和」、財政的に肥大化してきた福祉国家的諸施策を縮減するような「構造改革」、である。
福祉国家的諸施策の縮減は、そのまま「社会格差の拡大」を促している。そのような「階層型社会」「階層型国家」の構想を全面的に打ち出し、そのもとでの新しい社会統合理念を提示するための「憲法全面改正」がすすめられようとしている。今日の政治動向は、「憲法改正」を焦点としながら、まさに「国家全体の改造」(渡辺治)を意図してすすめられてきているのである。
教育基本法「改正」は、まさにこうした動きとセットになっている。だとすれば、教育基本法「改正」の真のねらいは、端的に言って次の2点で示される。すなわち、@「グローバルな経済競争に勝ち抜くために、経済界・産業界の要請を国家・行政機関が即時的・即応的に受け止め、そこでつくられた教育政策を教育現場にストレートに反映させていく、そのような制度上の仕組みをつくること」と、A「階層分化しつつある国民を、教育の国家管理の中で統合すること」である、ということになろう。
こうして、改正案は、@に対応して、教育基本法第6条に示されていた「(教員は)全体の奉仕者」という文言と、教育基本法第10条に示されていた「(教育は)国民に対して直接に責任を負う」という文言を見事に削除して、かわりに「(教育は)この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」(改正案第16条)であるとした。また、国や行政機関は「教育振興基本計画」を作成することができ、作成した「計画」は国会に「報告」することだけが義務付けられているにすぎない(改正案第17条)。
そして、Aに対応して、これまで教育基本法には明示されてこなかった「教育の目標」(改正案第2条)を20項目にも及んで書き込み、さらには「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」(改正案第6条)ことを命じてさえいる。
つまりは、国家・教育行政機関が「自由」に「教育の内容と計画」を決定することができ、教師はこの「法律」や「計画」に従うことが求められ、さらに子どもや生徒にも「規律を守る」ことを求めているのである。
ここには、もはや教育制度上の民主主義はどこにも存在しないというべきである。すでに小選挙区制度のもとで国会の議員構成は多様な意見を反映するような代表者性を著しく喪失しており、そのもとでほとんどの法律が丁寧な審議を経ないままに通過している。その上、政府が閣議決定する「教育計画」を、国民の代表機関である国会で審議されるのではなく「報告」だけでオーソライズされ、それが教育現場を縛るものとなってしまう。そして、教師にも生徒・子どもにも「規律を守る」ことが法律文書として押し付けられる。
現行の教育基本法が「個人の価値」を尊重し、「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」を期待しているのは、そのような「自立した人間」がなければ民主主義の制度は機能しないからである。そして、「自立した人間」を育てる教育現場にこそ民主主義が必要なのであり、だからこそ教育基本法は制度上の「教育の自主性」や「教育の自由」を求めたのであった。
改正案が求める「人間」像はまさにその対極にあると言わざるを得ないであろう。民主主義の窒息した教育現場において、民主主義社会を豊かに構成する人間を生み出すとは、残念ながら考えにくい。改正案の「危険可能性」とは、まさに「民主主義社会そのものの危険性」であるというほかない。
教育基本法「改正」の先取り事例
先に述べたような衝動から出発して「教育改革」はすでに現実化しながら進行してきており、教育基本法「改正」の先取りとも言うべき事態が広がっている。
グローバル経済のもとでの日本経済の生き残りをかける経済界・産業界は、新産業の創設や、国際感覚を身につけた新しい人材の育成などを期待して、「大学改革」にとりわけ強い関心をよせてきた。
例えば、国立大学法人化(2004年)によって、大学は文部科学省が定める「中期目標」に従って「中期計画」を作成することになったが、以後、各大学では、大学運営の中心である評議会・教授会の審議と決定はこの「中期計画」をどのように達成するかを基準としてすすめられてきている。事実上の文部科学省支配は強まってきているのである。
教育基本法改正案が示している「教育基本法−教育振興基本計画」は、すでに大学分野においては大きな影響を与えている「科学技術基本法−科学技術振興基本計画」をモデルとして構想されたものであった。これまで科学技術振興基本計画は、科学技術基本法(1995年)制定から5年おきに3度にわたって作成されてきている。この基本計画は、政府が閣議決定するだけで、実質的な議論に大学関係者がかかわることはなく、そのまま具体的な法律の改正にまで言及している。例えば、大学自治の基本用件である人事(人員構成)にかかわって、学術振興基本計画に記載されたことを受けて、学校教育法における大学教員の「職名・職務内容」を変更する改正が行われている。
また、周知のように、東京都では、全国の「教育改革」を牽引する役割を果たしながらさまざまな諸施策が具体的に整備されてきている。とりわけ注目されるのは、学力テストの動向であり、日の丸君が代の強制である。
教育行政機関が「学力テスト」を作成し、その点数によって学校と教師を評価する仕組み(学校評価・教員評価)ができあがっている。そうなれば、「テスト」によって授業内容・教育内容は大幅に制約を受けざるを得ないであろう。実際に、試験に出される問題(過去問、ドリル)を徹底して反復する学校や教師が増えているという報告もある。
こうした仕組みがさらには学校選択制や学校統廃合と結びつくとき、現実には地域間の経済格差・家庭間の経済格差を一層拡大するものとして機能することはほぼ間違いがない。学校教育に関する情報の量、または学校情報へのアクセス方法の有無、越境して学校へ通学させることができるかどうか、教育水準の高い学区・地域を居住地として選択できるかどうか、こうしたことはすべて経済的ゆとりのあるなしによって決定されるであろう。
日の丸君が代の強制は、どうか。この問題では、まさに国を愛する「態度」(改正案第2条)が焦点となっていることに留意したい。国歌斉唱時に「起立していたかどうか」、国歌斉唱時に「歌ったかどうか」、そしてそれは「どれくらいの声量だったか」。これらはすべて、具体的な目に見える「行動」として問うている。
これを点数で「評価」すればどうなるのか。日の丸に対して「どれだけ長くおじぎをしたか」「どれだけの角度だったのか」、果ては「休日には各家庭で日の丸を掲揚しているか」でさえ、「評価」の対象とされるかもしれない、と考えるのは、決して絵空事ではない。
忘れてならないのは、戦後日本の教育行政が、教育基本法の基本原則を逸脱しながら(身勝手な「文部省版教育基本法解釈」を携えて)、教育内容への大幅な干渉・介入を繰り返してきたことである。自分たちに都合の悪い教科書を排除してきたことも認めるわけにはいかないが、それ以上に、まじめに子どもの成長発達を考え作成してきた教科書も「学習指導要領どおりではない」ことを理由に検定不合格としてきたことの罪は計り知れない。例えば理科分野では、「原子や分子の理解」につながるような内容は、今もなお小学校教科書に記載できないでいる。教科書検定問題とは、社会科にのみ起きている問題ではないことをぜひ知ってもらいたい。教育内容の統制は、「子どもの学力低下」とひいては「国民の学力低下」を生み出す最大の要因となってきている。
「教育基本法は改正されてもされなくても同じ」という意見について
このように、現行教育基本法の踏み倒しと、教育基本法「改正」の実質的な先取りは、すでにいくつかの場面で現れてきている。ここで注意をしておきたいのは、教育基本法改正に反対する市民の一部には、「すでに改正はすすんできているのだから、法改正がされても結局は同じではないか」という意見が聞かれることがあることである。
しかし、それではなぜ、政府はこれだけの時間と労力をかけて教育基本法を改正しようとするのか、ということは説明できない。むしろ、「教育改革」で教育基本法改正の先取りをしながらそれでもなお法改正しなければならないような「抜き差しならない現実的な問題」がそこにはあるとみるのが自然であろう。
その現実的な要請とは一体何か。そこにこそ、実に私たちがもっとも依拠すべき大事な論点がある。
教育内容の統制による子どもの学力低下も、教育格差の拡大も、現実には、教師たちの努力によって是正ないし修正されてきた、と私は考える。平和教育の理念にいたっては、たとえ教科書に記載がなくても徹底して追求する教師たちの存在によって継承・発展されてきたと言うべきであろう。そしてそれは、教育基本法の基本理念が厳然とあり、国民や教師の意識の中にその精神が沈殿物のように堆肥することによって維持されてきたのではなかったか。教育紛争・教育裁判になるたびに教育基本法は引き合いに出され、そのことを通じて戦後日本の教育運動の中で教育基本法理解は鍛えられてきたのではなかったか。
政府にとって「抜き差しならない問題」とは、戦後日本の教育運動が担ってきた「教師の自主的な努力」であり、そうした教師の教育の自由を保障する根拠法としての教育基本法の存在そのものにある。だから先の国会審議では、改正案に賛成する勢力は、改正の趣旨をほとんど明らかすることができないにもかかわらず、改正すべき現実的な問題として「教員組合支配が問題だ」と言ってはばからなかった。
教育基本法「改正」問題にどう取り組むか
だとすれば、政府教育基本法改正案が成立するにせよしないにせよ、現段階でどのような国民的世論を形成するかは大きな意味を持つことになろう。
例えば、「愛国心」にしても、それが狭い意味での「単一民族」を想起するようなナショナリズム的な意味合いとして用いられることには問題があることや、「自立した個人」を育成するためには自由と民主主義に貫かれた教育制度が必要であり、徹底して科学に依拠する教育内容が用意されなければならないという教育という営みの本質的な理解について、国民的な合意の水準を高めておくことはきわめて大事である。そして、私の個人的な対話体験で言っても、そのような合意は決して困難ではない。最近の世論調査の結果を見ても、格差社会の進行に対して国民世論は懐疑の目を持ちはじめている。
したがって、私自身は、現行の教育基本法の理念を語り合う運動がきわめて有効であろうと考えている。
このとき、教育基本法の理念が現実の学校・地域・家庭の中でどれだけ生かされてきたかを問い直す運動でなくてはならないであろう。
一般的に、教育運動の担い手たちは、教育基本法の理念を形骸化し、教育基本法を無力化してきたのは教育行政の側の責任としてとらえる傾向がある。確かに教育基本法の理念は、戦後日本の文部行政政策によって空洞化させられてきた歴史を持っている。
教育基本法の理念を語り合って
しかしながら、戦後日本の教育運動は教育基本法を運動スローガンとしては掲げても、その理念にもとづいて自らの学校教育のあり方を具体的に検討してきたのであろうか。残念ながら、ここには教育運動の側にも重大な問題があったと言わざるを得ないであろうと私は考える。
例えば、教育基本法は「個性豊かな文化の尊重」を明記している。私が担当している大学生の授業アンケートでは、「個性を大事になんかされてこなかった」「だから教育基本法は良いことを書いているが、あってもなくてもあまり意味がない」という記述が必ず出されてくる。具体的な学校体験の中で、若者・青年たちは、個性を十分に尊重され、人間として大事にされてきた経験をほとんど持っていないのが現状ではなかろうか。
だとすれば、教育基本法の理念を学校単位・地域単位で語り合うとき、今ある学校の中で具体的な問題をすべて出し合い、これまでの校則や指導のあり方について率直に誤りを認め合うところからはじめなければ、教育基本法の精神を本当に生かすことにはならないのではないか。
もっと大胆に問題提起をするとすれば、それはまさに「子どもの権利条約」の精神とセットにしながら語り合い、「子どもの権利」を最大限尊重する学校のあり方を探求する本格的な運動、すなわち「新しい学校づくり」の提起そのものである。「直接責任制」を出発点としながら学校の中に父母・住民の参加を仕組み(教育基本法第10条)、生徒の意見表明権を土台としながらひとりひとりの個性を尊重し(子どもの権利条約第12条)、そのためには今ある校則や規定を問い直し、わかりやすく学びがいのある授業を探求する、文字通り全面的な学校変革ということになろう。
「それは、一人では無理だ」というのが大抵の方の思いであろう。それは正しい。だから、今から隣の人に声をかけることからはじめるしかない。繰り返しになるが、教育基本法「改正」後の危機とは、日本の民主主義社会の危機である。だとすれば、教育における民主主義とは何かを真摯に問いつつ、民主主義の基本である「話し合い」をスタートさせることしかないのではないか。
そして、そうした教育体験を持つ子ども・青年たちが、日本の民主主義社会の将来にわたって大きな力を発揮するであろうことに確信を持ちたい。それこそが改正案が想定する「人間像」との決定的な差異なのであり、改正案を実質的に無力化させることにもつながるであろう。
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