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シンポジウム「教育基本法『改正』推進勢力の分析と重要論点の検証」
2006.8.12
第2セッション
 
  教科教育の道徳教育に基づく再編の動向と問題点
--法案2条を批判する--
  
<山本由美(浦和大学)>
 
 教育基本法政府案第2条、すなわち「道徳」の法律への格上げがねらいとする人間像についてご報告したいと思います。
 はじめに、政府案第2条については、従来5号の「愛国心」の問題がクローズアップされる傾向がありました。しかし2条の1号から5号に挙げられているいわゆる「徳目」とよばれているものは、学習指導要領の「道徳」の「4領域構成」に対応したものとなっています。
 日本の「道徳」は世界でも独特のもので、@自分自身に関すること、A他人に関すること、B自然や崇高なものに関すること、C集団・社会に関すること、この4領域からなっています。これは、89年の学習指導要領改定の際にほぼ確立したものです。この並び方がどういう意味を持つかについて、哲学者の山科三郎さんの分析を思い出して、政府案が出された後、すぐにお願いして、このような学習指導要領の道徳観が、どのような人間像をつくっているのかについて検討をお願いしたのです。「新教育課程と道徳教育(山口和孝著 1992年 エイデル研究所)」という本の中で、山科さんによる日本の道徳教育の「4領域構成」の構造化が紹介されています。
 政府案2条とこの4領域構成は対応しておりまして、2条の1号、2号が@の「自分自身に関すること」、3号がAの「他者に関すること」、そして4号がBの「自然や崇高なもの」に応じています。4号については、自然・環境破壊が進んだのでこのような条項を入れたのだ、というようなことも一般には言われます。しかしこれは「自然や崇高なもの」すなわち日本の道徳の特徴である宗教的情操に関わる内容としていれられたのです。最後の5号は、Cの「集団・社会」そして愛国心、という内容に対応するものです。すなわち現行の学習指導要領で行われている道徳の4領域構成を法律に「格上げ」して、全教育分野に対応させたのが、今回の2条政府案なのです。
 これについて、政府案が国会に上程された後に、町村元文科相が、テレビの番組でつい口を滑らせて、「政府案2条の情操には宗教的情操も含まれる」、「伝統には神道の伝統も含まれる」と言ってしまったことがありました。従来、「改正」勢力による宗教的情操の問題は9条の宗教教育で対応することが多かったのですが、今回は9条については手をつけずに、2条で一気に宗教的情操教育を含む道徳を「格上げ」して、目標にするというねらいが見えてきます。
 さらに、ここにおいて愛国心が登場することについては、日本の場合、伝統的に愛国心と宗教的情操が未分化で、アメリカでは60年代に両者の関係については克服されたものが、日本では今日でも未だ「宗教的情操を引きずった愛国心」であることも一つ大きな特徴だと思います。
 
●4領域構成の「並び」の持つ意味
 
 先ほどの4領域の構造についてですが、なぜこの4領域構成が独特かと言いますと、本来であれば、「自分→他者→集団・社会」と流れるのが論理的に自然であるにも拘らず、「他者」と「集団・社会」の間に「自然・崇高なもの」という異質なものがはさまれているからです。その内容は「人間の力を越えたものへの畏敬の念」であるとか、宗教的情操そのものといえるものが含まれています。現在社会の中でアトム化された非常にばらばらにされた個人が「超越したもの」を「ジャンピングボード」にして、非現実的・抽象的な集団にまとめ上げられていく時に、「自然・崇高なもの」といったものが有用なわけです。89年に大学教員から文科省にスカウトされた押谷由夫氏は、2002年の文部科学省発行の道徳副教材「心のノート」を中心的に推進した人ですが、彼は、「自然や崇高なものをいったん通すと、集団としてまとめやすい」と述べています。
 また「心のノート」の目次を見ると、やはり「自分→他者→自然・崇高なもの→集団・社会・愛国心」という例の4領域の順番になっていて、89年からの道徳教材の共通の流れとなっていることがわかります。
 
●「道徳」の法律への格上げが持つ意味
 
 今回、法律への格上げが持っているものの意味を話したいと思います。第1に、政府案2条が、1条の「人格の完成」という教育の目標を受けて、学習指導要領の道徳の項目が格上げされることによって、全ての教科教育の上位に、道徳の内容が目標として設定されることにより、全教科教育を道徳化することができるわけです。後で山科さんが報告されますが、教科教育の精神主義化といったものは、すでに戦前からくりかえし試みられていたことです。ただし、例えば理科とか自然関係の教科の場合など、その内容が道徳と結びつくことによって、子どもたちの科学的認識が後退する危険性をはらんでいます。それは、すでに始まっているのかもしれませんが、自然科学系教科などの「学力」のレベルダウンにつながる危険性もあります。
 第2に、今まで学習指導要領レベルで定められた内容が法律になることにより、今までも学習指導要領に法的拘束力があるか否かは教育裁判などで大変論争点となってきたわけですが、今後は一気に法的拘束力を持つこととして、ダイレクトに教師に対して強制され、評価対象となっていくことになります。
 今までは、道徳というのが学習指導要領にあっても、現場の教師たちが教育現場で「自然・崇高なもの」とか、「人間の力を超えたもの」をどれだけまじめにやってきたかというと、まあやってない先生もいらっしゃったと思います。あるいは、「自然や崇高なもの」を「命の教育」と読み替えたりして、常識的に見てあまり子どもに変なことを入れないようにと工夫されてきたかと思うのですが、それらが法律になることにより、今後は許されなくなるのです。
 第3に、今回の改正では、私立学校、幼児教育、家庭教育などが新しい条文として挙げられていますが、2条の教育の目標はその後の全ての条文にかかることとなりますので、学校教育のみならず、社会教育、私立学校、高等教育、幼児教育、家庭教育、企業教育の全てに、道徳教育の4領域構成の教育目標が被さってくることになります。従来条文になかった私立学校というのが挙がってきた時点で、従来多少リベラルな教育が許されていた私立学校にも、愛国心を含めた独特な道徳が被さってくることになります。宗教教育を道徳教育に読み替えてきた一部のキリスト教の私立学校などはどうなるのかといった問題もあります。今まで学校教育の「道徳」という狭い範囲の問題であったものが、全教育領域に被さってくることになるのです。
 第4に、この政府案2条の「道徳」の教育目標化は民主党案との分岐点になります。民主党案も「国を愛する心」とか、いくつか似たようなことは言っているのですが、それは前文にちりばめていたりして、目標にあたるような徳目の全領域への強制は民主党案にはありません。また民主党案は、宗教的情操についても別個に宗教教育の条文で取り上げています。徳目を全ての教育領域、全ての人間に強制しようとは考えていないようです。もしかして財界の一部の意向が反映しているのかもしれません。子どもたちや青年の自然科学認識を道徳によって損なってしまうことが、科学技術立国といったことに反してくることが予想されます。いずれにせよここが民主党案と政府案の分かれ道になるのでしょう。
 
●「道徳」の変遷が求める人間像は
 
 歴史的経緯については、道徳教育を使って都合のいい人間をつくるという系譜は、一体どこまでさかのぼることができるのでしょうか。学習指導要領に特設「道徳」が登場するのは1958年です。ただ、最初は、戦前への反省や占領政策への配慮などからか、多少遠慮深い内容のもので、宗教的情操とかを表に出すことはなかったのです。しかし、すでに66年の中教審の答申の時点で、「家庭・社会・国家」という形で、家庭から国家忠誠までつなげていくという構図が出てくるわけです。いわゆる高度経済成長期の人的開発能力論などで生まれた矛盾を克服して、それを企業・国家に対する忠誠にどうつなげていくのかという意図で、66年段階でこのようなことが出されているわけです。「企業に開かれた家庭、社会」ということが言われます。
 それを受けた69年の学習指導要領改定には、「学校における道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うことを基本とする」ということが、すでにこの段階から出ています。それから、71年の中教審答申で、それまでの「家庭→社会→国家」という構成が、現在に近くなって、「生命→社会→国家・文化」という人間形成の構図になっているわけです。ここで、「生命」と言っているのは、当時は公害問題が社会問題化していて、経済団体が、「自然と人間の調和」などを内容とする答申を出しているようですが、それも受けています。そこから国家へとつなげていくというものがすでに出されているのです。
 このような流れが確立するのが、先ほど申し上げた89年の学習指導要領改定による4領域構成の確立、「生活科」の登場、国旗・国歌の「義務化」などになるわけです。このことについては、渡辺治などが、大企業の海外進出に伴い、財界が「日本人としてのアイデンティティ」や帝国主義的イデオロギーを重視し始めた社会経済的背景を受けて、学習指導要領も改定されたのだと分析していますが、ここにつながってくるわけです。
 こういう道徳教育がどういう人間像を目指しているかについては、山科先生にこれから話してもらおうと思います。先生は、しばしば人格形成期の子どもに対する「マインドコントロール前のコントロール」と言っています。オウムであればマインドコントロールですが、もっと小さいうちから、マインドコントロールしていくものだということです。例えば「心のノート」の中心的編纂者である文化庁長官、河合隼雄は「日本人の中空構造」という著書の中で、日本人とは伝統的に「中が空洞」だと述べています。そのような中空構造を埋めなければならないと、それを埋めるものが宗教的情操とか天皇とかになるのかもしれませんが、宗教的情操に限りなく近いものとしての道徳が必要とされているのだ、と言います。新自由主義的な改革が進んで格差社会が生まれ、大量に生み出された貧困層を社会的に統合したり、貧困層にプライドを与えるために道徳が必要なのはもちろんですが、いわゆるエリート層と言われる人も中に空虚なものを持った人が生まれ──例えばオウムに流れていった理系エリートを見ればわかるのですが──、そういう人たちを統合するためにもこういった道徳のあり方が必要なのではないかということです。
 それではこのような道徳教育がどんな人間像を目指すかについて山科先生に話していただきます。
 
 
 
 政府案の求める人間像
  
<山科三郎(哲学者)>
 
 教育基本法政府案は「どんな人間像を求めているか」と言った時に、私たちは、この文面からだけの議論では不十分であり、基本的には労働者あるいは市民がどのような状況に置かれているか、特に労働政策に対して財界が何を要求しているかをふまえなければ、空論になってしまいます。私が企業内教育を調べてきた経験から言ってそう思います。
 これまで私は労働運動と関わってきましたし、企業内教育・学校教育と関わってきましたが、政府や財界の政策を批判する時に、教育基本法をいつも頭に置いてきたかというと、そうではなくて、むしろ階級闘争のことを頭に置いてきました。やはりそこが僕にとっての弱点だったろうと思います。もっと教育基本法のすばらしさを対抗軸にして戦っていれば、有効だったのではないか。教育のイデオロギー批判の趨勢はそういうところにあったと思います。70年代以降、やっと教育基本法が問題となりました。なぜかというと県段階で改正の動向が出てきたからです。そういう意味で私たちは、過去の反省の上に立ってこれから戦わなければなりません。
 
●生まれた時からのマインドコントロール
 
 この法案を読む時に、2条の第1号から第5号を見ると、10条とともに、家庭教育・幼児教育、この2つとの関係に気をつけなければならない。この5つの徳目が、オギャーと生まれた瞬間から、家庭の義務として、家庭の教育理念として強制されているところが重要です。そういう小さい子どもたちに対しては、発達段階に応じて徳目がすり込まれる。そのような義務が生じていくだろうということです。法制化と一言で言いますが、そのことの持っている意味を深めていかないと、戦いが豊かになっていきません。
 「心のノート」については、マインドコントロールという言い方は哲学的には間違いで、子どもの心を形成する「過程」を支配するということだと思います。なぜかというと、道徳教育が日本教育史上初めて、教育のトップに置かれるわけです。実は、この5つの項目がトップにくることによって、道徳教育があらゆる教育活動を拘束する理念となるわけです。全ての教科教育が道徳教育をやらなければならないのです。各教科を通じて道徳教育が行われるわけです。
歴史的に見ても、西南戦争のころにさかのぼって、幼少のころに、白紙のころに「忠孝」をたたき込めと言われてきたわけです。現在もなおこのような考えがあるわけです。教科教育以外の教育活動も含めて、HRとか遠足とか集団行動を含めて一切が道徳教育の下に従属するのです。
敗戦後の、日本国憲法、教育基本法がある下においても、このような流れはあり、道徳教育にとどまらず、理科教育においても、徳目の教育を行うべきだと主張する文部大臣もおりました。
 しかしながら、このような動きに対して、教育基本法を根拠に批判を加えるという動きはあまりなかったのです。そういった主張の間違いを指摘して、それを自明のものとしていたのです。皇国史観に対抗するすばらしいものである教育基本法を持っていたにも拘らずです。
 
●求められる「企業への忠誠」
 
 そして、企業支配でもこのような考え方は生きてきたのです。60年代の企業支配における人間関係は、決して教育基本法が要求した人間関係ではありません。それは、会社人間に代表されるものです。正義と真理を愛し、他者を重んじる人間が、会社のために汚職をしたりはしません。このような人格的従属関係は今でも続いています。しかし、本来は自律的な 個人に基づく人間関係がつくられなければならなかったのです。
国民の中には「なぜ道徳教育がいけないの」という声があったのは確かです。
 例を挙げると、1970年代の文部省の「道徳」の指導書の中では、「あらゆる教科の中で道徳教育をしなさい」、という記載があります。例えば、森鴎外の「安寿と厨子王」を国語で取り上げる時は、「安寿の行動の中に、自己を超越した精神を読み取り、人間が力を尽くした後で運命を神仏に委ねるもっとも崇高な精神を観察できる。」と書いてあるのです。しかし、そのころの教師はこのようなことを無視していた。しかし、これからはそのようなことがたくさん起こってきます。
 例えば集団行動、この中でかつての軍隊的な、体で命令に従うことを教えるようなことです。全教育過程の道徳化というのは、教科教育、課外教育を含めて、道徳教育が入っていくわけです。その中では教科独自の論理が否定されるのです。
 道徳教育により「期待される人間像」を考える時に、今の中教審の中には体系的な考えを持っている人はいません。人文科学系・社会科学系に拘らず、教科外活動を含めて、「支配層」の要求する人間像を、形成する一つの要素として各教科が位置づけられるということは、山本さんに提起していただきました。国家原理に望ましい人間像の形成ということです。では、それはどのような人間像かというと、「国家の権威に対して全てひざまずく人間」ということであり、「自分の頭で考えない人間」です。戦前は天皇の言うことを聞くことでした。今は、企業の言うこと、政府の言うことを聞くということです。疑うことは悪いことだとされるのです。
 しかしながら、論拠のある疑いを抱く理性的な人間、おかしいなということに敏感に気づく人間を私たちは育てていかなければなりません。子どもたちは元々そのようなものを持っているのです。子どもの良さを育て上げるのが私たちの仕事です。
 愛国家心、すなわち、グローバリゼーションの進む中で国家のために有用な人間像というのは、時代によって変わってきます。しかし、改正法2条に挙げられた5項目は、どのようにも応用できます。そのように見れば少しわかってくるかもしれません。
 
 
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