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教基法改正「与党案」を分析する
 
@「与党教育基本法改正に関する協議会・中間報告」
A「教育基本法促進委員会・新教育基本法大綱」
                     
世取山洋介(DCI事務局長・新潟大学助教授)
 
 
 
1 「与党教育基本法改正に関する協議会」の「中間報告」と「教育基本法改正促進委員会」の「新 教育基本法大綱」
 
 去る2004年6月16日、「与党教育基本法改正に関する協議会」が「教育基本法に盛り込むべき項目と内容について(中間報告)」(以下単に、「中間報告」)を公表しました。この協議会は、もともとは2003年5月12日に「与党教育基本法に関する協議会」として発足し、その後、2004年1月9日に現在の名称に変更されたものです。また、これに先立つ6月11日には、自民党および民主党の議員から組織されている「教育基本法促進委員会」が「新教育基本法大綱」(以下単に、「大綱」)を公にしています。
 「中間報告」は、「一部改正ではなく、全部改正」を意図しているので、教育基本法のすべての条項に関わって、それに盛り込まれるべきことを、大雑把に、指摘するものとなっています。「中間報告」によれば、教育基本法は、現行の「前文+11条」という構成から、「前文+18条」という構成へと変えられることになります。具体的には、第2条(教育の方針)および第5条(男女共学)の2か条が削除され、新たに、「(教育の目標)」(新第2条)、「(生涯学習社会への寄与)」(新第4条)、「(家庭・学校・地域の連携協力)」(新第5条)、「(家庭教育)」(新第6条)、「(幼児教育)」(新第7条)、「(大学教育)」(新第10条)、「(私立学校教育の振興)」(新第11条)、「(教員)」(新第12条)および、「(教育振興基本計画)」(新第17条)との見出しがつく9か条が追加されます。そして、現行法と同じ見出しのもとに残る前文および9か条のうち、1か条を除くすべてーーすなわち、前文と、(教育の目的)(学校教育)(教育の機会均等)(義務教育)(社会教育)(政治教育)(宗教教育)(教育行政)ーーについては、その意味の本質的な変更を伴う修正が加えられています。
 「中間報告」を、「大綱」と合わせて読んでみると、「中間報告」は、「新」教育基本法では理念を示すことにとどめ、「具体的な内容については他の法令に委ねること」としているために、曖昧な点、あるいは不徹底な点が多いのに対し、「大綱」は、より詳細なあるいは徹底したものになっていることがわかります。逆に、「中間報告」は、政府提出法案となることを予定しているので、新しい要素が適切な条項に配置されているのに対して、「大綱」は、技術的な精度の低いものとなっています。この2つの文章を読むに当たっては、法的な構成などの技術的な側面と内容に関する方向性については「中間報告」に依拠し、その本音と具体的な意味を「大綱」に沿って理解するのが適切だ、と言うことになります。
 
 以下では、教育基本法改正が、現在進行中の新自由主義教育改革を総まとめするものとしての意味を持っているので、新自由主義教育改革の骨格とその中心的な問題点を押さえ(2)、やや迂遠となりますが、教育基本法の意義を少し詳しく見た上で(3、4)、「中間報告」の基本的な問題点として2つのことを指摘し(5、6)、「中間報告」において曖昧にされている重要部分の意味を「大綱」を使ってよりはっきりとさせ(7)、最後に、今後の行方をめぐって若干の指摘をしたいと思います(8)。なお、本来は、「中間報告」が全面改正を意図していることに応答して、すべての条項ごとにその問題を指摘すべきなのでしょうが、それらは2つの基本問題の応用問題となるはずので、別の機会に委ねることにします。
 
 
2 「新」教育基本法がまとめ上げようとしている新自由主義教育改革とは
 
 教育基本法の改正によって最終的に“総括”されることになる現在進行中の教育改革の法制的な特徴として、次のことを指摘しなければなりません。第1に、政府が金を出して政府が教育を供給するというこれまでのスタイルが変更され、政府は金を出すことに集中し、可能な限り政府以外の主体に教育を供給させるという「間接政府」の手法が導入されていること。第2に、「間接政府」のもとにおいて、「政府」と「それ以外の主体」との関係を実質的な意味での“契約”関係として抑えようとしていることです。“実質的な意味での契約”とは、対等で自由な当事者間の合意に基づく関係という契約の“形式的な意味”とは異なり、財布の紐を握っている者が、金にものを言わせて、自分以外の者に自分の目的を実現させる関係のことを意味しています。つまり、今回の教育改革の最大の目玉は、史上最大の貨幣所有者である国家が、貨幣を支給する代わりに、それを受け取った者に、自分の意思に従わせて、教育を実行させるという仕組を整えるということにあるのです。
 このように現在進行中の教育改革を説明すると、「日の丸・君が代はどこに行ったのか?」あるいは「市場原理を導入することこそが、その最大の特徴なのではないのか?」という疑問が出てくるかと思います。
 しかし、日の丸・君が代などの強面のイデオロギー統制は、新自由主義教育改革が本格化して現れる“弱者切り捨て”と、それから生まれる弱者からの異議申し立てと社会不安に対応するものなので、教育改革の中心には座っていません。もっとも、上からの教育改革に反対する教師を、日の丸・君が代の強制を使って、今の段階から“あぶりだす”と言う意味はありますが。
 
 また、「市場化こそが中心」という議論について言えば、教育改革国民会議の最終報告「教育改革国民会議報告−教育を変える17の提案−」(2000年12月22日)(以下、『17の提案』)が出てからはそのような議論は的外れとなっていることを、指摘しなければなりません。それ以前にあっては確かに、市場あるいは選択が重視され、それに伴い国家の役割が縮小するという形で議論が進んでいました。しかし、『17の提案』では、「国家戦略」としての「教育への投資」という考え方が初めて定式化され、国が重点投資先を決定し、その投資効果を評価するという役割を担うべきこと、そして、内閣府に設置されるであろう“教育振興基本計画会議”にそれらの役割を遂行させることが提唱されたのです。「市場」は、さまざまな欲求を満たすための方法として導入されるのではなく、お金を受け取って教育を実行していく政府以外の主体の間に“競争”を組織して、競争に負けた者には罰を与えることにより、政府の要求により効率的に従わせるために導入されるのです。
 このような理論に基づく改革がもたらす公教育のもっとも大きな特徴は、一体なぜ教育は「公共的な」性格を持つのか、という基本的な問題に、「それはお金を持っている政府が『やれ』と言ったことをやるからなのだ」という回答しか用意していないことにあります。公教育が子どもの人間的な成長発達にとって貢献しているのかどうか、という実体的な問題は、公教育が本当に「公共的なのか?」という問題を考えるに当たっては無関係なものとなっているのです。例えば、東京都におけるたった4校のエリート学校指定と多くの定時制高校の統廃合のように、一部のエリート教育だけを重視して、多くの子どもたちに対する教育を切り捨てるような公教育であっても、財布の紐を握っている政府の言うことに従っているのでそれは“公共的”なのだ、ということになるのです。
 しかし、これが、ある種の“居直り”であることは、わかりやすいことだと思います。
 公教育が「公共的」でありうるのは、“権利としての教育”という観点から、すべての子どもにとって必要なことを、すべての子どもに提供することに他ならないわけなので、少なくとも、“権利としての教育”に基づく共通性と公開性の2つが満たされなければ、「公共的」とはなりえないはずです。また、すべての子どもにとって必要なことの見極めを、国家に任せておけばよい、と言うことにはなりません。それを誰がどのように決定すべきなのか、ということも相当に慎重に検討されなければならないのです。
 
 
3 教育基本法が想定する教育の 「公共的」性格の中身
 
(1)「人格の完成」ないしは「人格の全面的な発達」
 “権利としての教育”という観点から見て、@何が子どもにとって共通なことなのか、そして、Aそれをどのようにして見極めるべきなのか、という問題に対して、現行の教育基本法は、戦前の軍国主義の反省に立って、相当に徹底した回答を用意してきました。
 第1番目の問題に対して教育基本法が用意している回答は、まずは、「子どもの人間としての全面的な成長発達を保障すること」というものです。教育基本法の前文第2段には、「個人の尊厳を重んじ」る「教育」を「普及徹底していかなければならない。」と述べられています(この部分は、「個人の尊厳を重んじ」る「人間の育成」と読まれやすいのですが、そう読んではいけないことは、教育基本法の立法者意思を探るための基本的文献となっている文部省に組織されていた教育法令研究会が編集した『教育基本法の解説』(1947年)(以下、『解説』)で指摘されています。)。このことを受けて、第1条では、教育の第1目的が、子どもの「人格の完成」に求められることが確認されているのです。
 
(2)「国民」を内に含んだ「自律した個人」
 しかし、教育の目的が、独立した人格として個々の子どもが成長発達していくことにあると確認しても、問題のすべてが解決したことにはなりません。なぜならば、人間は社会的な動物なので、社会、そして、社会を統治している国家との間で、いかなる関係を取り結ぶべきなのか、という問題が残っているからです。国家・社会との関係で、一体いかなる質の関係が、すべての子どもに保障されなければならないのでしょうか。これに対する回答は簡単なようにも思えます。そのときの政治権力が考える“良き国民”の統一的なイメージを、すべての子どもに内面化させればいいからです。しかし、それでは、「国民」が「個人」を飲み込み、“良き日本人”が“悪しき人間”となってしまった戦前の再現となってしまいます。つまり、残された先の問題に答えようとすれば、「個人」と「国民」とが分離し、両者の間に常に緊張関係が存在せざるを得ないなかで、両者の折り合いを、“権利”と言う観点から、どのようにつけるのか、という難問に向き合わざるを得ません。
 教育基本法が用意している回答は、子どもの人間としての全面的な成長発達という広い基礎の上に、「平和的な国家及び社会の形成者として」の「心身ともに健康な国民」が育成されなければならない、というものです。このことを『解説』は次のように説明しています。「人格の完成ということは、国家及び社会の形成者の育成ということの根本にあり、それより広い領域をもっている。この広い領域で育成された人間が、はじめて国家及び社会の良い形成者となることができるのである。」(63頁)
 では、「個人」の中に「国民」を位置づけた人間とはどういうものなのでしょうか。それは、「真理と平和を希求」し、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」を実践できる人間(前文第2段)であり、同時に、「真理と正義を愛し」、「個人の価値をたっとび」、「勤労と責任を重んじ」る、「自主的精神に充ちた」「国民」(第1条)なのです。このような資質をもった国民であってはじめて、“平和的な社会及び国家の形成者”、すなわち、「作られた社会に消極的に順応してゆくにとどま」らず、それを「積極的に…形づくっていく者」となりうるのです(63頁)。教育基本法がこのような「人間」およびその中に内包される「国民」像を描くにあたって採った方法は、軍国主義のもとにおいて全面的に否定されていたものを特定し、それを明示すると言うものでした。この意味で、確かに教育基本法の文言は“抽象的”で、中曽根康弘の言うように“蒸留水”のようなものなのかもしれませんが、それが、軍国主義的侵略とその終着点としての“敗戦”という極めて重い歴史的経験から生まれたという意味で、実に、生々しく、具体的なのだということを確認しておく必要があると思います。
 このように「国民」をその中に位置づけた“社会的な人間”としての成長発達が、すべての子どもに保障されなければならない、というのが、教育基本法の描く第2番目の教育の「公共的」性格なのです。
 
 
4 誰がどのように「公共的」な教育をつくっていくのか
 
 それでは、以上のような内容を持つすべての子どもにとって必要とされる教育を、具体的に誰がどのような手続のもとに創造していくべきなのでしょうか。教育基本法の真骨頂は、この問題に対して、それを国家ではなく、教育の過程に直接参加している教師と子どもにまずは委ねられ、その教育創造のプロセスが、教育行政に服従してはならず、「国民」に対して開かれたものでなければならないとの回答を示しているところにあります。このことは第2条(教育の方針)と、第2条から派生している第10条(教育行政)において示されていることなのです。
 第2条は、第1条の目的を実現するためには、英文によれば「私たち」(We)は、「文化の創造と発展に努めなければならない」との決意を表明しています。教育に対する「私たち」の「心構え」が全面に出ているために、第2条の法的な意味はわかりにくいものとなっています。しかし、第2条が重要なのは、以上のような決意表明に加えて、第1条の目的を実現するためには、ある特定の質を持った子どもと教師との間の関係が必要であり、そしてそれが、「自他の敬愛と努力」、英語では、「相互の尊重と協力」(mutual esteem and cooperation)と性格づけられること確認しているところにあるのです。そして、「相互の尊重と協力」は、教育における「学問の自由の尊重」、教育が「実際生活に即」していること、そして、教育が「自発的精神を養うこと」を求め、しかも、それらによってはじめて可能になることが明らかにされているのです。
 やや長くなりますが、「自他の敬愛と努力」に関して『解説』が述べていることを引用してみます。
「教育ということが全うされるためには、教育する者とされる者との間に敬愛という心のつながりがなければならない。教師は生徒の何かの目的の手段に利用したり、生徒は教師を道具のように考えていては、真の教育も学問も行なわれない。更に他人を敬愛するということにとどまらず、自分みずからをも敬愛するということが必要である。自己のよいところをいつくしみ育ててゆく、又みずから正しいところを正当に主張してゆくことがたいせつである。そこで「自他の敬愛」とされたのである。更に、この自他の敬愛と言うことは、教師と生徒との間のみならず、教師相互、生徒相互の間にも行われなければならない。このような敬愛の念の上に、はじめて相互の協力が可能となる。真、善、美、の価値の実現を目指して相互に教育し、教育され、協力一致してゆくところに偉大な文化の創造と発展がとげられるのである。」(74頁)
 教育基本法において個人の権利として表明されている「学問の自由」も、実は、このような特定の質を持った人間関係を実現するための手段として位置づけられていることに注意する必要があります。
 「相互尊重と協力」という有機的かつ流動的なことがらを、形式性を本質とする「法」を用いて実現しようという実に困難な課題を教育基本法は1947年の時点で引き受けていたのだということを確認しておく必要があります。ここに、国連子どもの権利条約第12条に規定された「子どもの意見表明権」に連なる“芽”を見出すことは決して無理なことではありません。
 そして、第2条に想定されている関係を実現するためにこそ、第10条が置かれたのだということをここで抑えておくことが重要です。第10条は、「民主主義国家における教育と国民との間の関係を明らかにしたもの」なので、「教育全体の方針として、むしろ第2条教育の方針の中に入れられるべき」なのですが、「教育行政に特に関係するところが多いので」、独立した条項とされたのです(『解説』127頁)。よく知られている通り、第10条は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」と述べ、教育行政の任務を“条件整備”に限定したものでした。それは、第1条に規定された教育目的を実現する手段としての「相互の尊重と協力」を実現するためのものだったのです。
 
 
5 「中間答申」の基本的な問題点の第1 ── 教育基本法が取り組んだ課題の“無視”と 「国民」に飲み込まれようとする 「個人」
 
 「中間報告」の基本的問題点の第1は、教育基本法が取り組んだ2つの課題、すなわち、「個人」と「国民」との間の緊張関係をどのようにして「人間」にひきつけて解決するのかという課題、そして、そのような「人間」の育成のための教育を誰がどのようにして創造し、国家はいかなる任務を引き受けるべきなのかという課題を“無視”していることです。
 「中間報告」は、教育目的を規定した第1条を、「教育は、人格の完成を目指し、心身ともに健康な国民の育成を目的とすること」へと簡素化することを提案しています。これにより、「人間」の中に「国民」を取り込むために、戦前の軍国主義の反省の上に書き込まれた「平和的な国家及び社会の形成者」「真理と正義を愛し」「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重んじ」「自主的精神に充ちた」という文言のすべてを、第1条から、削除すべきことを示唆しているのです。
 さらに、「中間報告」は、教育基本法第2条を削除すべきことを提案しているのですが、これは、「国民」を「個人」の中に含んだ人間の形成という課題から逃避したことに伴い、そのような人間形成には「自他の敬愛と協力」、すなわち、「教育を創造する自由な空間」が必要なのだ、という命題を教育基本法から消去しまうということを意味します。
 そして、「中間報告」は、第2条(教育の方針)に代えて、「(教育の目標)」という見出しのもとに新しい第2条の導入を提案しています。新しい第2条では、国家が国民に内面化することを要求する価値観が列挙されるのと同時に、教育基本法第1条および第2条に規定され、国家が人間をその中に一方的に統合することを阻止し、公教育が国家に吸収されてしまうのを防いでいた、「真理と正義を愛し」「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重んじ」「自主的精神に充ちた」(第1条)、「学問の自由」「自発的精神」「自他の敬愛と協力」が、新しい第2条に、もともとの意味とはまったく無関係に、雑然と“放り込まれて”いるのです。
 例えば、「真理の探究」が、「豊かな情操と道徳心の涵養」と(新第2条1号)、「創造性」が「一人一人の能力の伸長」とカップリングされています(新第2条2号)。また、「自他の敬愛」が「自他・男女の敬愛と協力」に、「平和的な社会及び国家の形成者」が「主体的に社会の形成に参画する態度の涵養」に修正されて、「公共の精神を重視」と組み合わされています(新第2条3号)。さらに、新しい第2条では、「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し−あるいは「大切にし」−、国際社会の平和と発展に寄与する態度の寛容」という文言の導入も提案されています(新第2条6号)。
 言うまでもなく、教育基本法にある文言と類似した文言の導入は、教育基本法との接合性を表見的に確保するための苦肉の策です。そして、これまた言うまでもなく、新第2条の本当の意図は、「豊かな情操と道徳心の涵養」「伝統文化の尊重」「愛国心」を書き込み、「個人」を「国民」へと吸収し、個人を国家に統合してしまうことにあるのです。
 
 
6 「中間報告」の基本的な問題点の第2 ── 教育の教育行政への吸収と徹底した中央集権的、トップダウン方式の教育行政へ ──
 
 「中間報告」の基本的な問題点の第2は、教育と教育行政を分離しようとした教育基本法とはまったく逆に、教育を教育行政の中に吸収し、さらには、徹底した中央集権的で、トップダウン的な教育行政の確立が意図されていることです。
 「新」教育基本法は、まず、文科省の役割を、「国は、教育の…水準維持向上のための施策の策定と実施の責務を有する」と規定する一方で、地方公共団体の役割を「適当な機関を組織して、区域内の教育に関する施策の策定と実施」(新第16条2項)と規定しています。そして、内閣府の役割を、「政府は、教育の振興に関する基本的な計画を定める」と規定しています(新第17条)。何の変哲もない規定ぶりのようにも見えます。しかし、教育の水準維持向上のための施策を策定し実施する権限、言い換えれば、教育内容決定権を文科省に独占させることが意図されていることを指摘しなければなりません。さらに、教育における財政配分、すなわち重点領域と切り捨て領域とを決定する司令塔を、行政権の最高権に位置する内閣府に設置される「教育振興基本計画会議」に握らせることが予定されているのです。
 そして、教育振興基本計画会議によって策定された“投資計画”、それを受けて文科省によって決定される教育内容を、地方公共団体の政治的状況に関わりなくーーつまり、その公共団体の住民の政治的な意思がどのようなものであろうとーー、公立学校に徹底するために、教育行政を完全に中央政府のコントロールの下に置くことが想定されています。それは、教育基本法第10条1項にある「教育は、不当な支配に服することなく」との文言を、「教育行政は、不当な支配に服することなく」(新第16条1項)と変更し、「不当な支配」から保護されるべき対象を「教育」から「教育行政」に置き換えていることに示されています。つまり、政党間の対立から教育行政を独立させるという名の下に、国民代表機関である国会、あるいは、住民代表機関である地方議会、そして、住民によって直接選出される首長の影響力の外に、トップダウン方式の教育行政を置いてしまうことが意図されているのです。
 
 
7 「中間報告」の“中途半端さ”
 
  (1)新自由主義教育改革から  見える“中途半端さ”
 以上のような大きな問題点を持つ「中間報告」は、それでもなお、新自由主義教育改革の基本骨格から見れば、「まだまだ、不徹底だ」と評価されることになると思います。
 まず指摘しなければならないのは、第1条を簡素化し、第2条を削除したとはいえ、「人格の完成」という教育目的を維持しているために、「人格の完成」の基礎にある「個人の尊厳」(憲法13条)との間の矛盾を免れることはできないということです。しかも新第2条の中に現行教育基本法を想起させる文言をちりばめてしまっているために、その矛盾がますます大きくならざるを得なのです。自律した個人と国民との間の緊張関係は消し去りようもなく、新第2条に新たに盛り込まれるあれやこれやの“価値”も結局は法的に無意味なものとなる危険性が大なのです。
 次に指摘しなければならないのは、「国」すなわち文科省の権限に関する書込みが弱いということです。新自由主義教育改革を徹底すれば、一方において教育に関する資金配分とそれを使って何を学校にさせるのかというスタンダードを政府に決定させ、そのスタンダードに基づいて結果を達成する責任(結果責任)を各学校に課し、結果達成の具合、すなわち、“投資効果”を測定する権限を政府に独占させることになります。しかし、「中間報告」は「教育の水準維持向上のための施策の策定と実施」(新16条2項)と規定するだけで、政府が独占するはずの“評価権限”を明示していません。
 また、新自由主義教育改革のもとにあっては、地方公共団体の役割は、教育振興基本計画会議によって決定された“投資計画”を、自治体で具体化する“審議会”を設置するだけで足りるはずで、現在政府と学校の間に位置している教育委員会は、中央政府のコントロールを歪める挟雑物ゆえ、単なる金食い虫にしかならず、廃止の対象とならざるをえません。しかし、「中間報告」は「地方公共団体は、適当な機関を組織して」(新16条3項)と述べるに留まっているのです。
 
(2)「大綱」による“中途半端さ”の穴埋め
 自民党と民主党の議員から構成される「教育基本法改正促進委員会」が公表した「大綱」は、技術的に見れば奇妙なところも多いのですが、「中間報告」の中途半端さを穴埋めするものとなっています。
 まず、「人格の完成」という文言を完全に消去し、「個人の尊厳」との関係を完全に遮断し、しかも、教育基本法において「国民」を「人間」の中に含ませることになっている「真理と正義を愛し」「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重んじ」「自主的精神に充ちた」(第1条)、「学問の自由」「自発的精神」「自他の敬愛と協力」(第2条)といった文言も一切用いていません。教育基本法を完全に更地にした上で、「教育は人間の内在価値を開発して、共同体のかかわりの中で人格を陶冶し、社会・国家、ひいては世界に貢献する日本人を育成する」ことを教育の目的として書き込むべきと主張しているのです。
 そして、新しい教育行政に関しては、「教育の目的を達成するため、初等中等教育における教育内容を定め、評価の責務」を「国」が負うことをはっきりと指摘しーースタンダードの設定権限と評価権限の国家独占!ーー、地方公共団体の任務として、「国の定めた初等中等教育に関する施策を推進する」ことーー地方公共団体の国策の下請機関化?ーー、そして、「地方公共団体の首長及び議会」が地方教育行政に「寄与する」責任を負うことを明記するよう求めていますーー首長と地方議会の国策への協力義務?ーー。これは、「中間答申」に曖昧な形で書き込まれている徹底したトップダウン方式の新しい教育行政の姿と、そこにおいて首長部局から現在独立している地方教育委員会が不要となっていることをより明確に示すものとなっています。
 
 
8 今後の行方
 
 今後は、改革推進勢力が「中間報告」を“右から”揺さぶりながら、その“中途半端さ”を可能な限り是正し、政府によって提出される「教育基本法改正案」を「大綱」に近づけていくという動きが永田町で強まっていくと考えられます。
 興味深いのは、「民主党教育基本法問題調査会」が6月16日に出した「与党教育基本法改正に関する検討会『中間報告』についての民主党コメント」です。そこで民主党は、「中間報告」が与党の協議会から提出されたにもかかわらず、どういうわけか、「人づくり・国づくりの根幹にかかわる教育基本法の議論までも、官僚まかせにしてしまう」との批判を展開し、「両院に特別の調整・検討の場を開設することを強く求め」ているのです。また、「特定の課題にのみ検討が集中し、部分的かつ限定的な修正案となっている」との批判も加えています。教育基本法改正をストップさせることは、与党の自民党と公明党と、主要野党の民主党の多くの部分との差異が、新自由主義教育改革の総括を教育基本法改正によってどれほど徹底して行なうのか、というその程度の差に収斂してしまっているようなので(コップの中の嵐?)、難しいように見えます。それゆえ、「『中間報告』の線で収めるほかないのか…」というあきらめの気持ちさえ生まれてきそうです。
 しかし、ここで次の事実を確認すべきです。すなわち、「中間報告」が“中途半端”なものとなっていること、そして、教育基本法改正を答申した中教審答申が2003年3月20日に出されてから1年以上たっても「法案」さえもできていないことは、これまでの反対運動の水準と規模であってもなお、「改正」が政治的に難題になりつつあることを示している、ということです。新自由主義教育改革の本体を必ずしも叩くものではなかったこれまでの反対運動を組み直して、きちんとそれを叩くものとすれば、状況は大きく変わる可能性はあると考えられるのです。
 そのためには、教育基本法改正が意図している「国民」への「個人」の吸収はいうまでもなく、それが予定している徹底したトップダウン的かつ中央集権的で、中央政府による教育内容への全面的な介入を当たり前のものとする教育行政のグロテスクさを明らかにすることがポイントになるはずです。「中間報告」と「大綱」が公表されてもなお、「改正」反対運動のやるべきことは多いのだということを確認して終わりにしたいと思います。
 
 
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