子どもの権利委員会の
最終所見を読み解く |
2005年4月1日
Defence for Children International 日本支部
代表 福田雅章(山梨学院大学法科大学院教授)
事務局長 世取山洋介(新潟大学教育人間科学学部助教授)
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はじめに
子どもの権利条約(以下、本条約)の実施状況に関する日本政府第二回定期報告の国連子どもの権利委員会(The Committee on the Rights of the Child、以下単にCRC)による審査が、去る2004年1月28日に、午前10時から午後1時までの会議と午後3時から6時までの会議の2回の会議を使って、計6時間にわたって、国連人権高等弁務官事務所のあるパレ・ウイルソンで行なわれた。そして、1月30日には「最終所見」(concluding observations)が出された1 。
CRCは、本審査と最終所見の採択に至るまでに、予備審査においてNGO代表との対話を非公開会議で行ない(昨年10月) 、さらには、本審査前日の1月27日午前9時より10時過ぎまで、非公開の会議を開催し、「子どもの声を国連に届ける会」の子どもたちによるプレゼンテーションを聞き、子どもたちとの間の対話を行なっている 。
本稿は、今回の最終所見の意義を、CRCとNGO代表との対話、子どもとの対話、および政府代表との間の対話の内容を踏まえて、検討することを目的としている。
本稿における分析は、審査におけるCRC委員の発言と日本政府代表による応答の分析が終わっていないために"暫定的"なものとならざるをえない。それでもなお次のことは予備的な結論として指摘しておきたい。最終所見の積極的な意義は、個別領域における個別的な施策に対する懸念と勧告を通じて、個別的な施策の基礎にある近年の子どもに関わる政策の基本的な考え方の条約との矛盾を十分に指摘していることである。そしてその消極的側面は、近年の子どもに関わる政策の基本的な考え方の性格付けを積極的に行なっておらず、それが本条約とどのように矛盾するのかについての指摘が弱いということである。が、このような消極的側面は、後に述べるように、最終所見の受け止め方如何によっていくらでも克服できる性格のものである。
以上のような暫定的な結論を説明するために、まずは、今回の最終所見を読むにあたって必要とされる観点を説明し(一)、教育を例にとってこのような観点の有効性を説明し(二)、その後に、福祉(三)、一般原則である「子どもの意思の尊重」原則(四)および一般的措置(五)について分析を加えることにしたい。なお紙幅の関係から、本号では、「三」までを掲載することにした。
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一 最終所見の読み方
―原理的問題から個別問題へ、個別問題から原理的問題へ―
今回の最終所見を読むに当たってもっとも注意すべき点は、前回の初回最終所見を採択した当時のCRCと今回の第2回最終所見を採択した現在のCRCが、各国における問題指摘のスタイルを変化させているということである。前回の時点にあっては、各国における制度および子どもの実態を包括的に把握し、条約の基本的な考え方−すべての領域の基礎に座る一般原則および個々の領域の基礎にある個別的原則−からそれらの問題点を指摘するというスタイル−原理的把握−を得意としていた。これに対して、現在のCRCは、原理的把握よりも、個別領域における個別的な問題を指摘することを得意としている。前回の最終所見に比べて今回の最終所見は、全体的な問題の把握が弱く、あるいは、基本的な問題に対する評価が不明ないしは弱いのではないかとの消極的な受け止めも、また、逆に、「CRCはより厳密に報告審査を行ない、かつ、問題指摘がより具体的となっている」と肯定的な受け止めも(事実、ジュネーブ在住のCRCウォッチャーの中にはこのような評価もある。)可能となっている。
しかし、最終所見の文面に原理的な問題と個別的な問題のいずれが表面に出てきているのかに着目して最終所見を受け止めること、特に、今回のように原理問題よりも個別的問題指摘に重点が置かれている場合に、それに引きずられて、最終所見を積極的または消極的に受け止めることは、次の二つの実践的な理由から適切ではない。
第1は、日本独自に当てはまる実践的な理由である。原理的問題も個別的問題も存在し、かつ、個別的問題が原理的問題から派生している日本のような締約国に対する最終所見を受け止めるに当たっては、前回の最終所見のように原理的問題の指摘を中心に構成されている場合には、指摘されたその原理的問題がカバーするすべての個別問題に対する指摘が含意されているものとして、そして、個別的な問題に重点が置かれている場合には、その基礎にある原理問題に対する指摘が含意されているものとして受け止められるべきである。仮に、原理的問題と個別問題双方に対する取り組みが求められているにもかかわらず、表面に出ているものの重点がどこにあるのかに引きずられれば、最終所見に基づく条約の効果的な実施は不能となる。
第2は、CRCに当てはまる実践的な理由である。CRCは審査に当たって、一度の審査で条約に規定されている領域のすべてを審査するという「包括的アプローチ」を、そして、個別条項別というよりは、個別条項をグルーピングして「領域」を作成し、「領域」毎に審査を行なうという「領域別アプローチ」を採用してきた。このようなアプローチの利点は、個別問題の背後に潜む原理的な問題を明らかにしやすいことにある。にもかかわらずそれを十分に行なわなければ、これらのアプローチは、条約に規定されている個別条項のすべての審査を一回の審査で行なうという意味しか持ちえなくなってしまう。CRCウォッチャーによる先の発言とは反対に、現在のCRCの動きは、「包括的アプローチ」および「領域別アプローチ」の意義を弱めるものとの指摘をしておく必要があるであろう。そして、CRCが二つのアプローチを堅持している以上、このような欠点を払拭するような受け止め方、すなわち、個別問題の背後にある原理的な問題を最終所見に読み込むことが必要となるはずである。
前回の最終所見の受け止め方に関連して、それを「個別的論点に開かれた文書」として性格付けて、「最終所見が一般原則および個別法原理−条約の基本的な考え方−に基づく評価を主体としていることから、そのような基本的な考え方に基づけば問題として浮上する個別問題は、今後、すべて政府による取り組みの対象となるはずである。」との指摘をしておいた 2。今回の最終所見ついてはこれとはちょうど裏のことを指摘する必要がある。すなわち、今回の最終所見は、個別問題の指摘が具体的であるからこそ、個別問題を生み出している近年の政府の政策の基本的な考え方と本条約の基本的な考え方との乖離または矛盾に対する批判が含まれているものと解されるべきなのであり、最終所見の受け止めに当たっては、このような乖離および矛盾を明確にし、その解消を政府に求めることが求められるし、政府もそれに答える責任がある。
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二 教育における個別問題と原理問題
このような受け止め方の有効性を、前回に引き続き審査のハイライトとなった教育にかかわる審査と勧告の分析を通して確認することにしよう3 。
(1) 今回審査における課題
今回における教育にかかわる審査の課題は大きく分けて二つあったといえる。一つは、現在にあって改革の途上にある公教育を本条約に基づいて批判的に吟味すること。そうしてもうひとつは、改革の対象となっている教育制度とも改革によって実現されようとしている教育制度とも異なる本条約に基づく本来の教育制度のあり方を示すことである。
教育改革の本格的な進展が1990年代終盤以降開始され、現在にあっては移行期にある日本の教育制度のもとにあっては、前回審査において指摘された問題−教育制度の競争主義的性格、不登校、いじめ、体罰、学校における子どもの意見表明権の直面する特別の困難−は放置されたままであり、しかも、教育改革は新たな問題を生み出している。
前回審査においてCRCから教育に関連して発せられたメッセージの核心は、学校において子どもがいじめ・体罰などの暴力の文化に支配され、プライバシーに関する権利が尊重されず、意見表明権が想定するような質の人間関係を大人との間で享受していないこと、その原因が、「高度に競争主義的な教育制度」に求められること、そして、このような競争主義的教育制度が大量の不登校者を生み出し、さらには、子どもの全面的発達を目的とするはずの教育制度が子どもの「発達のゆがみ」をもたらしているということであった。このような勧告は、90年代終盤以降本格的に開始されることになる教育改革以前の教育制度の持つ問題点を本条約に基づいて的確に指摘するものであった。そこではすべての子どもが基本的には単線型学校体系もとにおいて競争への参加を強制させられ、さらには、不登校を含めてさまざまな形を取って現れる子どもからの異議申立が校則と体罰によって抑圧されてきた。
しかし、90年代終盤以降進展する教育改革のもとにあっては、かつての重装備の単線型の学校体系を実質的に複線化し、非エリート部分の教育を軽量化するとともに、削減した資源の一部をエリート教育に集中投資するようになっている。子どもの人間としての成長発達に求められる普遍的な基準を解体して、子どもの教育を非エリート・エリート向けのそれに種別化することを意味している。そこでは、非エリート教育の犠牲の上にエリート教育が成立しているのである(教育改革の新自由主義的側面)。そして、このような教育制度が生み出す国内社会における格差の拡大を原因とする子どもの不安定化に対応するために、政府は、子どもに対する権威主義アプローチを強化してきた。また、教育改革の目標である国際的経済競争における日本の勝利がもたらす国際社会における不平等の拡大を正当化するためにナショナリズムが強化されてきたのである。つまり、不平等な国内外の社会における矛盾を当たり前のことと指定受け止めるようにするための諸イデオロギーの教化が強化されてきたのであった(教育改革の新国家主義的側面)。
教育制度の移行期にあって、かつてのそれへの逆戻りも、新しい方向へ進むことも拒否せざるを得ない。本条約に基づいて示される"第三の道"は、現在の単線型の学校体系を維持しながら、高校入試および大学入試を改革すること、子どもの人間的な成長発達にとって不可欠な条約12条が想定する応答的な人間関係を実現すること、そして、教師、親、子どもが共同して教育を創造していくことのできる自由な空間へと学校を作り変えていくこととなる。
(2)これまでの問題に対して再び厳しい指摘をしている勧告
CRCは、前回最終所見において過度に競争主義的性格およびいじめや体罰などの暴力の文化の蔓延など教育が重点事項であったにもかかわらず、前回最終所見において示された懸念および勧告が政府によって「十分にフォローアップされていない」との消極的な評価を行なった(パラ6)。その上で「それらの懸念および勧告が本最終所見において再び強調されている」と述べて、前回最終所見における第22パラグラフおよび第43パラグラフ、−学校の競争主義的性格とそれに伴う不登校・登校拒否および発達のゆがみなどの問題、ならびに第24パラグラフおよび第45パラグラフ−学校におけるいじめおよび体罰などの暴力が、依然として、懸念ないし勧告として生き続けていることを確認している。そして、第2回最終所見は再び、教育制度の過度に競争主義的な性格が「子どもの肉体的および精神的な健康に否定的な影響を及ぼし、かつ、子どもが最大限可能なまでに発達することを妨げている」との懸念が示している。また、「学校において法禁されているにもかかわらず、体罰が学校…において広く用いられていること」への懸念に基づき、体罰の「否定的な影響に関する教育的キャンペーン」の実施と「苦情不服申立の仕組み」の強化を勧告しているのである。
前回最終所見において注目を浴びた「参加に関する権利(第12条)の行使にあたって、社会のあらゆる側面において、子どもが一般的に困難に直面していること、特に、学校制度のおいて困難に直面していることを懸念する」(前回最終所見第13パラ第2文)との懸念については、それに対応する勧告が前回最終所見において欠けていたために、前回勧告のうち政府による対応が不十分なものとして指摘されていない。しかし、意見表明権に関わっては、「社会における子どもにたいするこれまでの(traditional)姿勢が、家庭、学校その他の施設及び社会全般において子どもの意見の尊重を制限している」との懸念が示され、それに基づいて、4つのことが勧告されている(28パラ)。そのうちの一つは、学校に焦点を当てたものであり、定型的なものから否定形的なものを含む学校におけるあらゆる意思決定組織への子どもの参加を確保すべきことを勧告している(28パラ(d))。このような勧告が他国に例がないのであり(他の国では、学校における子ども参加の実現に関わって具体的な勧告がなされる場合であっても、せいぜい生徒自治会を通しての参加の確保が勧告される程度である。)、学校において特に大きな困難に直面しているとの事実認識を前提としていることは間違いない。前回最終所見において示された懸念は今回においても引き継がれていると言える。
(3)個別実例の指摘を通して教育改革の目指す教育制度の原理的問題を厳しく指摘する勧告
では、教育改革が目指す新しい教育制度に対して第2回最終所見はどのように対応したのか。今回最終所見は、現在進行中の教育改革によって生じている個別事例ないしは個別問題に対する批判的な指摘が実に的確になされている。
教育改革が生み出す格差、あるいは、「教育における平等」の解体に関連して、第2回最終所見は、教育費の私費負担の大きさが原因となって生まれている格差、そして、政府によって実行されている非エリート教育部分の縮小ないしは切り捨てを、個別具体的な問題として指摘している。
私費負担の大きさに原因する不平等の問題は、「高等教育進学のための過度な競争のため、より貧困な家庭の子どもには購入できない私的な教育によって公立学校における教育が補われなければならない」(49パラ(b))と懸念され、「高校を卒業したすべての者が高等教育に平等にアクセスすることを確保するために、教育の高い質を維持しながら学校制度の競争主義的な性格を抑制することを目的として、生徒、親、および関連する非政府組織の意見を考慮に入れながら、カリキュラムを見直すこと」との勧告が示された。
そして、非エリート教育部分の切捨てに関わっては、東京都における定時制高校統廃合問題が取り上げられた。CRCは「定時制高校が柔軟な教育機会を特に学校から脱落した(dropout)子どもに提供しているにもかかわらず、東京都においてそれが閉校されようとしていること」(49パラ(e))を懸念し、「定時制高校の閉校を再考し、従来の(競争主義的なそれ)とは異なる形態の教育(alternative forms of education)を拡大するよう東京都の関係当局に働きかけること」との勧告を示したのである。
また、「教育における平等」を解体している教育改革の進行と表裏一体となって強化されてきている子どもに対する権威主義的なアプローチに関連しては以下の問題が取り上げられ、懸念と勧告が示されているのである。
・ いわゆるナイフ事件の後強化された所持品検査(パラ33、パラ34)
・ 子どもの政治的な活動の規制および日の丸・君が代の強制による子どもの良心の自由への干渉(パラ29,パラ30)
・ 政府の後ろ盾によって活性化したいわゆるつくる会教科書の問題(パラ49(g)、パラ50(e))4 、そして、
・ 教育改革を上から強制のために子ども、父母および教師との学校における共同が破壊されてきたこと(パラ49(c)、パラ50(b))。
(4)個別問題と原理的問題をつないだつくる会と「子どもの声を国連に届ける会」
最終所見は、教育改革の二つの側面、すなわち、その新自由主義的側面と新国家主義的側面の現れである個別的問題を、相当に細かくかつ網羅的に指摘している。これは、CRCがこれらの個別問題の基礎にある教育改革の二つの側面を十分に理解し、かつ、それを個別問題と関連付けていたことを示している。これを可能としたのは、つくる会が理論的フレームワークをCRCに対して示したということ、そして、「国連に子どもの声を届ける会」の子どもたちが、それを裏付ける事実を自らの経験に基づいて自分自身の声でCRCに説得的に提示したことに求められる。
昨年10月に行なわれた予備審査において、教育をめぐってNGOとCRCとの間でなされた議論における最大の理論的争点は、エリート教育および愛国心教育を本条約からいかに評価できるのかということであった。
CRCの委員からは、エリート教育に対するアクセスが条約によって禁止されている自由に基づいて再現されているのであれば、差別の禁止原則(条約2条)に触れるが、そうでなければ、条約に照らして問題とはならないはずだとの議論が提出された。しかし、NGOからは、社会権にはそもそも社会における階層格差の是正という目的が含まれているのであり、差別の禁止原則に抵触しなければどのような形でのエリート教育の組織化が許されるとすれば社会権が無意味となること、非エリート教育を犠牲にしてエリート教育を組織することは、本条約によって許されているわけではないとの反論が提出されていた。そして、東京都における4つの高校のエリート校としての指定、定時制高校の統廃合、さらには、親の教育費負担の増加を具体的な問題として指摘されたのであった 。また愛国心教育をめぐっても、CRCの委員からは「愛国心の涵養は国民としての一体性を醸成するために必要なのではないか。」との議論が提出された。それに対してNGOは、「日の丸・君が代」の持っている歴史的意義とそれが政治的論争を引き起こさざるをえないこと、および、その強制が学校における子どもの意見表明を押しつぶしているという事実を指摘したのであった。
そして、このような理論的なフレームワークのCRCによる受容をいよいよ確実なものとしたのは、1月27日に行なわれた非公開会議における子どもたちによるプレゼンテーションであった。
12歳から16歳まで不登校をし、その後、東京都の定時制高校に通い、今年の春にそれを卒業した青年は、「私にとって定時制高校は、大切な友達や先生方に出会った、かけがえのない場所です。しかしいま、この場所が、統廃合によって奪われようとしているのです。これを黙って許すことは出来ません。定時制を無くさないで欲しい。むしろ、もっと充実させていって欲しい。これが私の願いです。」と発言した。一人の子どもは、高校生の政治活動に関する1969年の文部省通達を取上げて、「学校でビラを配らせてもらえない。学校に貼ったポスターをはがされた。生徒会宛の手紙を学校が勝手に処分し生徒に届かない。ポスターを貼った高校を政治家が批判。こんな事は日常茶飯」と訴えた。そして、国立二小を卒業した高校生は、「卒業式の日、学校の屋上に、あたし達に何の相談もナシに日の丸が上がっていた。あたし達はその事に対して全く説明を受けていなかったのですごくびっくりした。疑問を持ったあたし達は、日の丸を上げることを決めた校長と教頭に、なぜ勝手に揚げたのかと質問しに行った。すると、校長と教頭はあたし達の話を聞こうともせず、『君達子どもには関係の無い事だ』と冷たく突き放した。」と語ったのである。
報告審査においては子どもたちの発言に直接関連する質問がCRC委員から繰り返しなされ(典型的には、定時制高校の問題を質問された日本政府代表が、「それは何のことなのか」との質問をしたところ議長がすかさず「なぜ東京は定時制高校を廃止しようとしているのか」と応答したこと。)、最終所見における懸念と勧告に結実したのである。
(5)最終所見における個別問題指摘の基礎にある原理的問題指摘
このような流れを見れば、最終所見において「近年の教育改革が教育における平等を掘り崩していること、ならびに、本条約の規定および精神、特に、子どもの意見表明権および子どもの市民的自由に適っていないことを懸念する。」というより原理的な問題指摘が、個別問題の指摘の基礎に据わっていることは明らかである。
このような懸念が最終所見において明示的に示されていてしかるべきであったとも言える。もっとも、このような原理的な問題が最終所見に明示的に指摘されなかったのは、現在のCRCが、「包括的アプローチ」および「領域別アプローチ」を生かしきれずに、個別問題指摘を重視しているとの技術的理由に由来するに過ぎず、この技術的な問題さえなければ先のような原理的な問題指摘は記述されていたはずである。従って、最終所見を受け止めるに当たっては、先のような問題指摘を最終所見に書かれているものとして理解することが十分に可能なのである。
そして、このような理解を拒否すれば、理論的に浅薄な受け止めとなり、最終所見の実践的な意味をごく狭い範囲にとどめることになってしまう。例えば、定時制高校の問題について、「東京だけで大阪は取り上げられなかった」との落胆を含む応答は、理論的に浅薄かつ実践的に狭い受け止めの典型例となる。そうではなく、最終所見は、教育改革がもたらす教育の不平等、なかんずく、非エリート教育部分の切捨てを批判しているのであり、東京だけでなく、定時制高校の統廃合を計画しているすべての自治体に対する「働きかけ」がこの最終所見では求められているのだと受け止めるのが適切なのである5 。
(6)勧告が示す"第三の道"−@高等教育の適格者主義の見直し、すべての子どもに高い質の教育を保障するカリキュラムづくり、そして、NGOとの共同−
では、最終所見は、本条約に基づく教育改革の本来的なあり方をどのように示したのであろうか。
最終所見は、競争主義的な教育制度をどのように是正すべきなのかという問題をめぐっては、50パラ(a)において次のような勧告を示している。
高校を卒業したすべての者が高等教育に平等にアクセスすることを確保するために、教育の高い質を維持しながら学校制度の競争主義的な性格を抑制することを目的として、生徒、親、および関連する非政府組織の意見を考慮に入れながら、カリキュラムを見直すこと。
この難解に映る勧告はどのように読まれるべきなのであろうか。
まず指摘しなければならないのは、大学教育を受ける者はそれを受けるにふさわしい者でなければならないとの"高等教育の適格者主義"を改めて、「高校を卒業したすべての者が高等教育に平等にアクセス」できるようにすべきだという、相当に大胆な制度改革の目標が設定されているということである。次に指摘しなければならないのは、適格者主義を実現するためには、すべての子どもに高い質の教育を確保しなければならないと提案していることである。「教育の高い質を維持しながら、…競争主義的な性格を抑制する」という文言は、どう見ても、競争的性格の是正を教育の質の低下によって実現するという方向、すなわち、現在の教育改革が目指す学力保障の水準の全体としての低下による競争の是正という方向とは不両立である。勧告は、「高い質の教育」と「競争主義的な性格の抑制」の両立は、実のところ、競争によって"敗者"−いわゆる"できない子"−を生み出すのではなく、誰もが高い質の力を初等中等教育を通して獲得できるようにして初めて可能になるはずである。そして最後に指摘しなければならないのは、そのためには、カリキュラムの改革が行なわれるべきなのであり、それは、NGOおよび関連する団体の意見を考慮に入れて行なわれなければならないとされていることである。
この勧告は相当に大胆である。
高等教育における適格者主義の見直しは、当然に、その準備教育と堕してしまっている高校教育の適格者主義の見直しにつながる。それは、すべての子どもに高い質の学力保障を実現すべきことを初等中等教育に要請する。そして、このような目標は非政府レベルにおいて強力に主張されてきたのであり、非政府組織との協力無しには実現不可能である。このような提案は、すべての子どもの人間的成長発達に必要とされる普遍的な教育という考え方を否定し、学校体系と教育内容をエリート・非エリート向けに種別化しようとしている現在の教育改革に対する文字通りのアンチーテーゼとしての意味を持つ。これは裏から言えば、非政府レベルにおいて主張されてきた「どの子にも高い質の学力を」というスローガンこそが条約に照らして適切なものであると言っているのに等しいのである。
(7)勧告が示す"第三の道"−A親と教師の主体性の回復−
最終所見は、学校制度に関わる提案だけではなく、日常的な学校運営のスタイルに関わる提案もしている。現在の学校運営のスタイルに対する懸念を示したパラ49(c)とそれに基づく勧告を示したパラ50(b)がそれである。それぞれ次のように述べられている。
49.c) 学校における子どもの問題および学校における紛争に関する親と教師との間のコミュニケーションと連携が極めて限定されていること。
50.b) 学校における問題および紛争、特に、いじめを含む学校における暴力に効果的に対応するための措置を、生徒および親と共同して、開発すること。
最初の二つの文章は、子どもの権利はそれと日常的に接する大人の側の主体性が確保されていなければ実現されることはないという考え方を表明するものとして画期的な意義を有している。これまでCRCは、子どもの権利を日常的に実現する大人の側の条件に関連して、その数の拡充あるいはそれに対する研修ということを中心に議論を展開してきた。それを一歩踏み越えて、子どもに関わる施設(学校も含めて)において、子どもに直に接している大人の側がその運営に主体的に関わっていない限りは、子どもの権利を実現することができないという理を、まずは、学校における親について確認したものであると言える。
この懸念と勧告の基礎になったのは、クラップマン委員による「子どもは学校において問題があっても、親に話さない。親が学校に行くともっと問題となってしまうという実態がある。これは親が学校から排除されているからではないか。親は学校においてポジションを持つべきではないか」との趣旨の発言であった。クラップマン委員の発言の前半は、前日の子ども代表団とのやり取りを基礎にしたものである。子どもたちによる「自分たちは親にも教師にも意見を表明できない」と言う趣旨の発言に対して、ある委員が「ではどうすればよいのか」という質問をした。これを受けて他の委員が「東洋では、親が問題を学校に持ち込めばトラブルメーカーとしてのラベルを貼られてしまう。だからこういう事態が起きるのだ。」という趣旨の解答を子どもに代わって行なった。ある委員による質問に対する"模範解答"は「だから子どもオンブズマンが必要なのだ。」というものであろう。事実、最終所見にはこの模範解答が勧告として示されている。しかし、クラップマンは、この模範解答を超えて、親が学校において主体的な地位を享受できるようにすることという解答を、おそらくは一晩をかけて、導き出したのである。この解答は、CRCにおける子どもの権利理解の水準を向上させるという意味において、そして、日本における子どもの権利の日常的な実現にとって必要とされていることを端的に指摘したという意味において、実に見事である。
クラップマンの発言は親に限定されている。しかし、同じ理は、教師についても言えること、そして、49パラ(c)に示されている教師と親のコミュニケーションを意味あるものとするためには、教師もまた学校運営において"ポジション"を持っていること、言い換えれば、主体性を十分に確保されていることが必要となることから見て、この部分は、親に限定されておらず、教師もカバーするものとして理解される。日本の教育制度における、「親と教師の権利の不在」宣言と「親と教師の権利の回復の必要性」の確認であると理解するのが、原理的な受け止めを重視するアプローチからは、適切だと言うことになる。
後にも述べるように、子どもの権利を日常的に実現するためには、親と子どもに直に接している大人−教育にあっては教師−が主体性を有していることが必要なのだと言う考え方は、福祉を含むすべての領域において、新自由主義的な改革が上から強引に強行され、大人と親との共同的な関係が破壊されている現状においては、きわめて重要である。それが最も進行している「教育」における以上のような懸念と勧告は、それが進行しつつある他の領域においても、当然に、積極的に受け止められるべきである。
(8)勧告が示す"第三の道"−B子どもの意見表明権の学校における全面化−
最終所見は、子どもの学校参加に関わって次のような勧告を示している。
29.d) 教育、余暇、およびその他の活動を子どもに提供している学校その他の施設において、方針(policies)を決定する会議(boards)、委員会(committees)その他の会合に、子どもが組織的に(systematically)参加することを確保すること。
そして、子どもの学校参加に関わっての勧告(29パラ(d))も、生徒自治会の設置という仕組み作りに関わる勧告にとどまっていないことに注意を向けるべきである。「組織的に」という訳語を当てたsystematicallyという英語は、すべての要素を網羅し、かつ、それらの要素を関係付けて、という意味を持っている。子どもの参加、さらには、その前提となる子どもの意見表明のsystematicな確保とは、子どもと教師とのやり取りという非定型的なものから学校評議会という定型的なものに至るまで学校運営のすべての側面にわたって、子どもの意見表明を確保されるべき場面を特定し、それらの場面を有機的に関連付けるべきことを意味する。
このような勧告は、審査前日に行なわれた子ども代表団によるプレゼンテーションが、日本における子どもの意見表明とそれに教育的に応答する大人の責任が、生徒自治会などの定型的な組織を活性化するだけでは解決するような問題ではない、との理解をCRCに与えたことの反映であると見られる。
すでに紹介した、卒業式において日の丸・君が代が、子どもに相談することなく、導入されたとの子どもによる報告がこの勧告の基礎にあることは疑いようもない。さらには、「受検のため、高校に上がるために、全ての教科をただ機械的に暗記し、記憶するだけ授業が毎日のように続いていた。与えられたものをこなすことが全てだった。考えているヒマなんてない。ひとつひとつ考えていたら置いていかれる。見放される。ギモンをもつことは許されなかった。」との発言に示されている「教育制度の過度に競争主義的な性格」から派生する「学校における問題」(problems in school)への対応も当然に視野の中に収められているものと考えられる。この発言に示されている問題に、あれやこれやの仕組みづくりによってのみ対応できると考えるのは、どう見ても、愚鈍である。CRCは、このような子どもからの要求にも答えうるという意味でsystematicと言う言葉を用いたのだと考えられる。このような基本的な要求に対する応答は、教師と子どもとの間の日常的なやりとりと、それを通じての、教師による教育の再構築から出発しなければ、とても、全校的、あるいは全学年的な定式化された仕組みだけをもってしては不可能である。
勧告は、言い換えれば、子どもが日常的にその教育要求を提出することのできる道筋を、学校の中において網羅的に準備することと、そして、その道筋を有機的に関連付けることにより子どもの要求に対する教育的な応答を学校のすべての側面において確保することを要請しているのである 6。
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三 教育から福祉へ
最終所見を全面的に生かした条約の実施を実現するためには、最終所見の意義を、そこで指摘されている個別問題だけに注目するのではなく、最終所見を生かしたそれらの背後にあってそれを基礎付けている原理的問題にも光を当てて明らかにしていく必要性は、教育だけに限定されているわけではない。以下では、まずは福祉についてそのような読み方をしてみよう。
(1)福祉、特に、保育および学童保育問題をめぐる勧告の重要性
現在の教育改革の特徴として指摘した、すべての子どもに対する教育をリストラして、エリートのための教育に投資するという動きは、他の領域における新自由主義的な政策と連動して行なわれている。この間問題となってきた保育と学童保育の広い意味での「民営化」、すなわち、子どもの発達と成長に必要とされるスタンダードを設定し、かつ、そのスタンダードに基づいて子どもに対するサービスを自治体が雇用した保育士および指導員が提供していくというスタイルを放棄ないしは縮小し、自治体とそれ以外の主体との間のある種の"契約"に基づき、自治体以外の主体が、公費をもとに、サービスを提供するというスタイルを拡大していく動きも、新自由主義的な政策の一つなのである。
今回の最終所見においては、福祉領域を直接取上げた項目は存在していない。しかし、新自由主義的政策が及ぼす影響を包括的に検討すべきことが17パラ第2文において勧告されているのである。17パラ第2文は次のように言う。
本委員会は、また、締約国が、公的部門、私的部門、およびNGO部門に対する財政支出のインパクトおよび効果、ならびに、異なる部門において提供される子どものためのサービスのコスト、利用可能性、およびその質と効率性を評価することを目的として、子どもに対する予算配分に関するデータを収集し、かつ、0歳から18歳までの子どものために公的部門、私的部門、NGO部門に支出された政府予算の量と割合を特定することを勧告する。
政府が財政を出し、かつ、自らサービスを提供するという方式から、財政を支出しながら、しかし、政府とは異なる主体にサービスを提供させるという方式へと移行している流れのもとにあって、@財政の支出先が、「公的部門」「私的部門」「NGO部門」であろうとも、財政支出の「インパクトと効果」を、「コスト」「利用可能性」「質」「効率性」の観点から測定すべきことを、Aその前提として、それぞれの部門への財政支出の量と割合を特定しておくべきことの二つを勧告しているのである。これは、新自由主義が進行している国に対してCRCが典型的に行なう勧告なのである(例えば、韓国に対する勧告)。
この勧告は、すでに広い意味での「民営化」が行なわれてしまっている地域における非政府レベルにおける運動に大きな示唆を与えるものである。
例えば、川崎市においては、放課後のすべての児童を対象とした全児童対策事業が公社に委託され、学童保育に関わって設定されている国家的なスタンダードを形式的に満たすだけであり、実際のところは、学校開放事業としての意味しか持たなくなっている。このような動きの中にあって、政府はもとより、NGOに求められているのは、このような民営化がもたらしている「インパクトと効果」、なかんずく、放課後の子どもの多様なニーズのいずれを、どの程度、満たしているのかを実証することと、満たされていないニーズを満たすために必要とされていること−例えば、障害を持つ子どもの放課後のニーズを満たすために必要とされる職員配置のあり方など−を明らかにしていくことである。そうして初めて、広い意味での「民営化」路線を、事実に基づいて是正していくことができるはずである。
(2)質問リストに対する日本政府の文書回答(実質的な「非民営化宣言」)を真剣に受け止める必要性
質問リストにおいて、「公立保育園および子ども養護施設のプライヴァタイゼーションおよびそれがこれらのサービスの利用可能性に対して与えている影響についての追加的情報を提供すること。」との要請が示され、しかも、before and after school day careすなわち保育と学童保育のことが取上げられるとの予告がなされていたにもかかわらず、親裁においてはエンゼル・プランに関する質問が出されるにとどまり、また、勧告に直接関係するものが存在していないことへの不満を持つ者もいるであろう。
しかし、質問リストにおいて示された保育と学童に対するCRCの関心を審査と最終所見において弱めることになった最大の原因が、次のような日本政府による質問リストにおける「民営化」(privatization)に関わる質問に対する文書回答であったことを理解すればその評価は変化するであろう。
「保育園および養護施設などの児童福祉施設に関しては、児童福祉法が、厚生労働大臣が職員の数および資格ならいに施設に関する最低基準を設定するものとし、かつ、児童福祉施設の監督は最低基準に従うものとしている。しかも、最低基準の確保に関しては、民営化により基準以下のサービスの低下は起こりえないものと考えられる。なぜならば、県が各施設を指導監督しているからである。サービスの利用可能性については、地方自治体が入所の申し込みを受領し、公立および私立の保育園に受け入れられる子どもを公正な方法により選抜している。」
職員の数および資格、ならびに施設に関するスタンダードの設定と、それに基づく設置認可、および、その実施監視という行政手法を維持していることが、「民営化」の弊害を防止する最大かつ唯一の根拠として示されている。日本政府代表をもってしても、このような行政手法の放棄を伴う「民営化」が、質の低下をもたらすものであるとの認識を明らかにせざるを得なかったのである。
最低基準が文字通りの最低基準であり、多くの自治体ではこれに上乗せをして、保育園および学童の運営に当たっているため、最低基準の遵守だけでは、「民営化」のもたらす弊害を予防できないという点はさておくとしても、基準設定行政を「民営化」のもたらす弊害の予防的措置として位置づけたこの回答は、相当に重要視されて良い。さらに言えば、民営化の政府にとっての最大の利点が普遍的な基準設定とそれに基づく支出の廃止という点にあることを考えると、そのような手法を取らないと断言している以上、これは実質的には「非民営化宣言」と受け止め可能なのである。
この文書回答は厚生労働省にとっての座右の名とされるべきである。それだけでなく、NGOは、これからの政府の施策を評価するための"政府御用達"的基準として十二分に活用していく必要がある。例えば、川崎市において全児童対策に包摂されてしまった学童保育においては実際に最低基準が遵守されているのだろうか。仮にされていなければ、政府は、その座右の銘に従い、それを「民営化の弊害の現れた事業」として認定しなければならないはずである。
(3) 教育に関する懸念と勧告のパラ49(c)とパラ50(b)において確認された原理の福祉への拡大
保育および学童保育に関わってもう一つ指摘しなければならないのは、教育において確認された"子どもの権利を日常的に実現するためには、親と子どもに直に接している大人−教育にあっては教師−が主体性を有していることが必要なのだと言う考え方"をこの領域においてもきちんと受け止めるということである。
新自由主義的改革のもとにあっては、親はサービスの購買者としてのみ捉えられ、また、子どもに直に接する職員は、自治体との契約をそのまま実行していく文字通りの"従属的労働者"として位置づけられてしまうことになる。それゆえ、親が保育園や学童保育のあり方について要求を指導員や保育士に対して提出していくことは、そもそも想定されておらず、まして、指導員や保育士が、親とのコミュニケーションに基づいて、保育のあり方を再構築していくことなどは想像外のこととなる。教育に関してパラ49(c)およびパラ50(b)において示された懸念と勧告は、"草の根の共同"を基盤にすえていると言う意味において、そのアンチ・新自由主義的性格は本物なのであり、それゆえに、新自由主義的改革にさらされているあらゆる領域において応用されるべき性格のものなのである。
学童保育が広い意味で「民営化」され、全児童対策事業に吸収されてしまった川崎市においても、学童保育時代には当たり前のものとして存在していた「保護者会」を活性化させることを、「民営化」の動きにストップをかけるための第一歩とされるべきであろう。
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[1] 最終所見の「未編集版」はすでに国連人権高等弁務官のホームページにおいて公開されている。
[2] 世取山洋介「最終所見にこめられた基本的メッセージ−意義と特徴−」DCI日本支部編『子ども期の回復』(花伝社・1999年)
[3] 通常10時から開催される審査においては、10時から政府代表団によるプレゼンテーションが行なわれる。その国の特別広報官である委員から「一般的措置」および「一般原則」に関わる質問がなされ、あわせて30分程度が経過する。その後、政府代表団からの質問への応答とそれへの再質問がなされ、2時間程度が費やされる。そして、午前中の会議の残り30分程度をかけて、「市民的自由」「家庭環境」「基礎的保健および福祉」そして「教育および余暇」に関する質問が委員からなされ、午前中の会議が終了する。3時から開催される午後の会議は、午前中の会議の最後に出された質問に対する政府代表団からの回答から開始され、1時間程度を費やした後、残りの2時間程度を「特別保護措置」に費やすのが一般的である。通常のパターンでいけば、午後4時過ぎには教育を含む部分の審査が修了しているはずであった。しかし、今回の日本審査では教育を含む部分の審査は午後5時まで行なわれた。質問、政府代表団からの応答、その後の質疑応答を含めると、2時間半が教育を含むパートに費やされ、オーバーした1時間弱はすべて教育の問題、さらには、その基礎にあって家庭の問題ともなっている人間関係論に費やされることになった。
[4] 紙幅の関係から、パラ49(e)とパラ50(e)における教科書検定制度の存在にもかかわらずつくる会教科書のような一方的な教科書が存在していることに対する懸念と、検定手続の「強化」(strengthen)との勧告については詳しく触れられない。しかし、この懸念と勧告が、クラップマン委員による、アジア諸国と協力しての歴史教科書作りの提案を基礎にしていることを考慮すると、検定基準を"民主化"し、"民主的な"検定を強化すべきだということを直ちに意味しているわけではないと言える。むしろ、国際協力に基づき歴史認識をより豊かにすること、それを教科書作成に関わるスタンダードとして活用することを意味しているものと受け止めるのが適切である。その意味で、「強化」という文言よりも、「再構築」(restructure)という文言が適切であったと見られる。
[5] ここで関連して指摘しなければならないのは、国連人権条約に関わって、特定の個別的な問題を実施監視機関に取上げてもらうことにのみ関心を集中させるNGO運動のスタイルについてである。このようなスタイルは条項別アプローチを採用している人権条約においては確かに有効たりえたであろう。しかし、これは、CRCの採用している「包括的アプローチ」および「領域別アプローチ」とは適合的ではない。今回の審査でも取上げられた朝鮮人学校問題について言えば、今回の審査は前回の水準にとどまり、高等教育へのアクセスにおける差別の問題のみに焦点が当てられ、民族学校が私立学校として認可されないことに由来する財政問題、そして、その基礎にある学習指導要領に従わなければ認可はできないとの文科省の主張は検討されなかった。私立学校としての認可問題は、学習指導要領を通しての教育の国家統制という問題と関連付けてはじめて実効的に取り上げることができるのであり、それは「包括的アプローチ」のもとにあってこそ実現しやすい。第1回と第2回の水準を超えるためには、「包括的アプローチ」の持つ意義を生かした形で、代替的報告書づくりおよび現地でのロビイング・傍聴活動を行なうことがNGOに求められる。この点は、つくる会の傍聴団をあまりに多数であると論難する向きが次のような認識欠如を基礎にしているがゆえに、非政府レベルにおける特に強い留意事項とならざるをえないということを、この際はっきりと指摘しておこう。先のような論難が認識していないのは、つくる会傍聴団の積極的側面である「包括的アプローチ」に対応した「分野横断的構成」だけでなく、当該NGOの傍聴団組織の消極的側面である「条項別アプローチ」なのである。
[6] なお、今回の審査においては、教育基本法改正問題は取り上げられなかった。これは、国会に提出される確定的な法案の有無が、審査において取上げられるか否かを判断する基準の一つになっているからだと推測される。1998年に行なわれた初回報告審査においては、法案成立前の段階にあった少年法改正問題について、それに直接応答する質問は審査においてなされず、また、懸念および勧告にも具体的な言及はなかった。また、今回の審査および最終所見では、法案の確定している人権擁護法は審査において取上げられ、最終所見においても言及されているのである。
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